見出し画像

金属泥を鼻から吸って

 側溝に溜まった鈍色の金属泥が夜の雨に降られて蒸気をあげる。投光機のまぶしい明かりの中おれは鼻からそれを吸い込む。おれの脳は加速する。加速する。そしておれは放水路の中をどこまでも走って行く。きっと誰にも追いつけないだろう、おれはそう信じる。それこそが力だ。
「すごいね」
 背中に背負った彼女がそう言う。
「すごいだろ」
 おれもそう言う。
 この街でおれたちは遊び、跳び、駆ける。きっと誰にも追いつけないだろう、おれたちはそう信じる。それこそが力だ。おれたちはそう信じている。
 医者は金属の蒸気を吸っているからだなんて言うけれど、唇が歯が溶けようったっておれは吸い続ける。腕が痺れようったっておれは続ける。おれたちに過去も未来もなく、ただ今がある。今だけを意識する。それこそが力だ。
 加速、加速、加速する。
 目に雨が入って夜景が滲んで、灰色の街は虹色の光輪に包まれる。行き先は決まっていないけれど、おれたちは光の中を走っていく。
 ああ、黒い黒い奴らが見える。おれたちの前に立ちはだかっている。銃を構えておれたちを止めようとしている。おれはポケットからパケットを取り出して中の金属泥を手の甲にぶちまけて雨に晒して焼けるような化学火傷の痛みと引き換えに有毒蒸気を吸い込む。おれの脳は加速する、加速する、どこまでも加速する。
 光を超えたその先から、地平線の向こうから、時間の崖の一歩先から、おれは邪悪なイメージを”今この瞬間”へと投射した。
 未来からのおれの投射が黒い黒い奴らの脳をかき乱す。黒い黒い奴らは悪しきイメージに操られてお互いを撃ち殺し始める。おれたちはそれを横目に笑いながら駆け出す。きっと誰にも追いつけないだろう。これこそが力なんだから。


「時を越えるクズ?」
「ええ。はい。強盗強姦殺人治安紊乱に自殺未遂までやりたい放題です」
「金は」
「あります」
「いいのか? おれがどんなやつか知ってるんだろう」
「問題ありません」
「始末したあとにおれを殺人罪でとっ捕まえるんじゃないだろうな」
「ご冗談を。こちらも困ります」
「よし。請け負った」
 髭の男はM33狙撃銃を手にビルの屋上へ登る。そして待った。


 走る走る、おれたちは走る、どこまでも駆けてゆく。金属泥の蒸気は神経細胞を駆け巡っておれの身体をどこまでも走らせて、松果体を励起させておれの精神を未来へと加速させる。
 いつの間にか放水路の両脇には観衆が立っていて、おれたちを囃し立てる。おれたちは歓声をバックに走り続ける。どこまでも、いつまでも。おれたちに過去も未来もなく、ただ今がある。今だけを意識する。それこそが力だ。
 銃声。
 彼女の頭が割れる。血。骨。目玉。体液。顔に降りかかる。彼女の構成要素が崩れていく。おれが走る度に彼女の大切な脳細胞が溢れてゆく。ああ、ああ、ああ。これはだめだ。
 それでもおれは止まることが出来なかった。それでも観衆はおれを、おれたちを囃し立てていた。
 さらに銃声。おれは足を貫かれる。とうとうおれはうずくまる。
 でも歓声は止まない。走れ、走り続けろと言う。
 でももう加速することなんてできない。
 おれはもう止まってしまった。止まってしまったのだ。
 おれの脳だけが頭蓋骨の中に閉じ込められて狂ったように回転していた。加速しろ。加速しろ。
 おれの背中の彼女の死体は雨のせいで、だんだん冷たくなっていった。


「始末した」
「二人ともですか?」
「一人は殺した。一人は足を撃った。この方がいいんだろう」
「お見事です。お気遣いありがとうございます」
「どうも。この後どうするんだ?」
「生きているほうからお話を聞きます」
「なるほどね。まあ、頑張ってくれよ」
 髭の男はM33狙撃銃を手にビルの屋上から降りた。そして去った。


 おれの脳は解きほぐされて灰色の絨毯。溶液に浮かぶおれの身体はまるでくらげ。奴らはおれを捕まえた。おれは奴らに捕まった。奴らは彼女を撃ち殺した。彼女は奴らに撃ち殺された。”おれたち”の構成要素はばらばらになり、”おれたち”は死んだ彼女とくらげのおれになった。
 そして奴らはおれで遊ぶ。奴らはおれを新人類と呼ぶ。奴らはおれのことを知りたがっている。奴らはおれの言葉を欲しがっている。
 だが、ああ、言葉なんかではおれには追いつけない。奴らにはそれがわかっていないのだろうか?
 おれは奴らに望むだけの言葉をくれてやった。奴らはそれを書き留め、打ち込み、精査し、舐めてしゃぶった。奴らはそれで満足した。おれは相変わらず溶液に浮いていた。おれはくらげ、誰にも追いつけないくらげなのだ。


 おれの子供達が生まれたのだという。奴らがそれを作ったのだという。おれの身体から分かたれたそれは、利発そうな目をした少年達だった。
 おれの子供達は奴らの言うことをよく聞いた。奴らの作った液体はおれの子供達の脳の松果体を刺激した。だがまだ遅い。おれにはとても追いつけない。
 だが、奴らにとってはおれに追いつくことは目的ではなかった。
 なぜ?
 奴らにとっては速さなんてのは問題じゃなかったっていうことだ。速さより単純なわかりやすい強さが欲しかったっていうことだ。
 おれの子供達は奴らの目論見通り強く、強く育った。そしてその強さを発揮した。
 おれはおれの子供達のことをかわいそうに思った。おれの子供達は強い。だが信じるに値する力を知らない。信じるに値する力、それは精神の速度だ。時を越える速さだ。
 おれはおれの子供達に語りかけ始めた。彼らの精神は加速し始めた。


「何?」
 有線テレビを眺めていた髭の男は突然のニュースに目を丸くした。映っているのは前の依頼主の職場。爆発している。興奮した様子で実況するレポーターがさらなる爆発で吹っ飛んできた何かの破片で頭を砕かれて死んだ。
 炎上する建物を背景に震える画面に映ったのは、あの加速する男と、それによく似た子供達だった。
 それを見た髭の男は猛然とした勢いで立ち上がった。
 そしてKZTのカーク・セダンのトランクにM33狙撃銃を詰め込むと、夜のハイウェイを走り出した。


 髭の男は狩人だった。彼はこの狂ったような速度で走り続ける世界で、自分だけは常に正しい時間の流れを捉えているのだと信じていた。そう信じることが、揺るぎない力につながるのだと信じていた。
 男はかつて、世界を少しでも正常なかたちに戻すべく、孤独な戦争に身を投じたこともあった。だがそれも昔の話だった。今では彼は金で動く傭兵であり、自分のことを置いていく世界など気にしてもいなかった。そのはずだった。あの加速する男を見るまでは。
 髭の男は、加速する男に、そして彼が引き起こしたあの爆発に、この世界の象徴を見た。殺すべき存在を見つけたのだ。その瞬間から髭の男の時間は加速し始めた。だが彼はそれに未だ気づいてはいなかった。


つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?