親切と打算の連鎖について

 小学校低学年の頃、祖母のおつかいでコンビニへうどん玉を五つ買いに行くことになった。おつかいに行くこと自体は全く構わなかったのだが、その時伯母が「あのコンビニ、うどんは棚の一番上に置いてあったかもしれない。届かなかったらお店の人に言うように」というようなことを言い出し、ゲェー、となった。引っ込み思案な子供だったわたしは店員に声をかけるのが嫌で、もし本当に届かないところにあったら嫌だな、伯母の勘違いだったらいいのに、と思いながらコンビニへ向かった。

 果たしてうどんは最上段にあった。しかし手を伸ばせばなんとか、ギリギリ届きそうだ。届いた。よし。ひとつ、ふたつ、みっつ、とカゴの中にうどんを放り込む。しかし、四つめに手が届かない。棚の手前から三つめまでが、当時のわたしの身長で手が届く限界だったのだ。とりあえず背伸びをして頑張ってみた。今になって思えば、物理的に身長が足りていないのだから完全に無駄な足掻きなのだが、それでもなんとか手を伸ばした。こんなに苦労しているわたしに店員が気付いてうどんを取ってくれないだろうか、と、他力本願なことを考えていたのかもしれない。とにかく自分から店員に声をかけるのが嫌だった。
 無駄な足掻きをしているわたしに気付いてくれたのは、店員ではなく買い物客のお兄さんだった。親切にもうどんをひょいと取ってくれた。よっつめ、いつつめ。おかげでうどんを全部で五つ、ちゃんと買うことができた。もちろんお兄さんに感謝の気持ちはあったのだが、それ以上に店員でもない知らない人が助けてくれたことにとにかく驚いてしまい、正直お兄さんにちゃんとお礼が言えたかどうかも怪しい。祖母宅に戻ってから、母や伯母に「うどん、手届いた?」と聞かれても、「うん」と答えた。実際三つめまでは自力で届いているのだから、嘘はついてないだろう、と自分に言い聞かせながら。
 この出来事はわたしの中で、「見知らぬ人に親切にしてもらった温かい思い出」というより、「見知らぬ人の手を煩わせてしまった複雑な記憶」として刻まれた。今でも若干そう思っている。

 そのうちわたしは大人になった。身長も伸びた。平均よりは少し小柄だが、コンビニの棚ぐらいで困ることはもうない。
 ある日のスーパーでのことである。棚の最上段のカップラーメンに、背伸びして一生懸命に手を伸ばす小学生くらいの女の子がいた。あの時のわたしがいる!と衝撃が走った。物理的に身長が足りていないのだから完全に無駄な足掻き、なのに。社交に抵抗のない子供ならきっとさっさと周りの大人に助けを求めているはずだ。でも彼女は無謀にも背伸びをして頑張っていた。その場にいる大人の中で、きっとわたしが一番彼女の気持ちを分かっている。だのに、わたしはすぐに動こうとはしなかった。引っ込み思案な子供はそのまま、積極性の欠けた大人に成長していたのである。他の大人が気付いて手を差し伸べるなら、それでいいと思った。しかしこういう時に限って、周りにちょうどいい大人はいない。だから彼女は必死に背伸びをしているのだ。ああ、もう、これはそういうことなんだ。わたしにやれということなんだな。
「これ?」
 カップラーメンを手に取り少女に声をかけると、彼女はきょとんとした表情で頷いた。分かるよ、助けてほしいと思いつつ、実際知らない人に本当に助けられると驚くんだよな。自分がかつてお兄さんにうどんを二つ取ってもらった経験を生かし、「一つでいいの?」と個数を訊ねると、少女はまた頷いた。これでわたしの役目は終わった。その事実に心満たされ、少女にお礼を言われたかどうかも覚えていない。もちろん彼女の顔も覚えていない。そもそもこんなのは、少女のために行った親切とは言えない。しない善よりする偽善なんて言うけれど、これは間違いなくただの偽善だ。

 見知らぬ少女はいつか大人になったとき、棚の一番上に必死に手を伸ばす子供に手を差し伸べるのだろうか。この小さな親切の連鎖が、ずっと続きますように……なんて言うとあまりにも陳腐な綺麗事だが、実際こういう連鎖が起こり得ることは自分が身を持って体験してしまった。わたしは知らない少女に親切にしました。だからあの時のお兄さん、あなたの手を煩わせたことは、これでチャラにしてもらえませんか?


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