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答えを保留している問いを増やすこと

私って決断力がある方なのかな。優柔不断なのかな。

自分でも、時々わからなくなることがある。

やるかやらないかとかメニューの中から何を選ぶかとか、選択肢が提示された中でどうするかを決めるのはわりと早い方、だと思う。決めてから行動に移すのもたぶん早い方。経験が増えて自分の好き嫌いへの理解が深まった分、昔より決断のスピードは上がっている気すらする。

一方で、決断に時間がかかる分野が増えてきたことも明確に感じる。

その典型例が「書くこと」。
このnoteも、一本書き上げるのにずいぶん時間がかかるようになってしまった。

20代の頃に比べると単純に体力や頭の働きが落ちた面もあるのかもしれないけれど、書きながら「これでいいのか」と悩む時間が格段に増えた。

書く、というか表現というものすべては、何かを「削ぎ落とす」ことから逃れられない。特に広く伝わるようにわかりやすくしようとすると、白か黒か、最適解は何か、結論はなんなのか、自分なりの答えを出していかなければならない。

昔はそうやって「答え」を出すのはそう難しいことではなかった。私の中の発見、腑に落ちたこと。知らないことがたくさんあるからこそ、一つ一つを自分なりに噛み砕いて理解したことを、思考の過程を含めて言語化するような感覚だった。

けれど、いろんなものを読んで、見て、聞いて、知ることが増えるにつれ、自分の中で納得いく「答え」にたどり着くまでにかかる時間がどんどん長くなっていく。考えているテーマ、興味のあるジャンルは以前より増えて、探究に必要な道筋も昔よりよくわかっているはずなのに。

いやむしろ、わかっているからこそ、より悩むのかもしれない。今の自分の「答え」にまだ足りない部分がたくさんあって、一朝一夕でたどり着けるものではないと、理解しているからこそ。

つくり出せるコンテンツの絶対数が減るのは職業人としては致命的な問題である。一定以上の量がないと質を評価する土台にすら乗らない。どれだけ素早く答えに至れるか、という競争の中で私たちは生きている。それが現実。

でもいち個人としては、自分の中でうまく表現できる言葉が見つかって「書ける!」と確信できた時の快感よりも、自分の意見の置き所に迷ってあれこれ考えあぐねている時の面白さを感じるようになった。

自分の感情や感覚を表現するための語彙力や文章力は増えた。でもそれ以上のスピードで、自分の中に「言葉にならないもの」も増えていく。だから言葉にする作業が追いつかない。

正しいかどうかとか説得力があるかとかではなくて、自分の中にぼんやりとある答え(のようなもの)を表出させるのにしっくりくる言語的枠組みをまだ見つけられていない、という感覚がある。だから、これまで使ってきた既存の言い回しそのまままだと私の実感とややズレがあるように感じてしまって、ああでもないこうでもないと書いては消し、を繰り返している。

人間には思考の癖があるから、結局似たような結論に落ち着いていく傾向はどうしてもある。その癖こそがその人らしさでもあるのだし。

でも、どんな情報を入れても即座に毎回同じ結論を出すような思考のショートカットは効率ではなく怠慢なんじゃないかと私は思っていて、周りからは非合理に見えるかもしれないけれど私はいちいち悩んで立ち止まって考えていきたい。

わかることが増えるほどわからないことが増えていく、だからこそこの世界は面白い。

言葉にしないと誰にも伝わらないし、何かしらの答えを出さないと「結果」とは見做されないから、私たちはいつも追われるように答えに近そうな言葉を探してなんとか当てはめている。

でも、無理に答えを出さずに保留のまま考え続ける問いがあることで熟していくものもあるはずで、私は可能な限り自分の中にそういうスペースをとっておきたいと思っている。

とはいえ絶対的な答えを求めてしまうと永遠に辿り着かないだろうから、言葉の技術が感覚に追いついてきたら、時々は暫定の答えを言語化しつつ。

そうやって保留している問いを増やしていくことが、私にとって成長であり成熟なのかもしれない、と思う。

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最所あさみ
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