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恋ではなく、愛の物語

今期のドラマを観ていて、「これは恋ではなく、愛だ」とグッとくるシーンが立て続けに二回あった。

ひとつはアンメット九話のラストシーン。もうひとつは、光る君への宣孝からまひろへのプロポーズのシーンだ。

小学生の頃から恋愛ドラマが大好きで、少女漫画や恋愛小説からも「胸キュン」の栄養を受けて、ここまですくすく育ってきた。いまだにキュンとくるシーンが散りばめられた「恋」の話は大好きだし、いくつになっても推しにキュンとする、みたいな気持ちが大切なのもよくわかる。安全圏で浴びるキュンは健康にいい。

世の中の胸キュン需要に対応してなのか、最近は年下男子もののドラマが急激に増えた。しかも10歳とか一回り下なんて設定もザラである。これは単純に若い方がいいといったエイジズム的な発想ではなく、胸キュンに必要な真っ直ぐさや必死さみたいなものを現代で表現すると、「年下」のキャラクター性が一番動かしやすいからなのだろうと思う。現代は情報も多いし考えることが多すぎるから、大人として描かれるキャラクターは必然的に慎重でヒロインの気持ちを尊重する人物になりやすい(ゆえに当て馬はだいたい本命の年下男子の真逆の、ヒロインより年上とか上司だったりするんだよな!)。人間関係とか今後の人生とかごちゃごちゃ考えずにまっすぐアプローチできるのは若さの特権であり、その一生懸命な姿に胸キュン要素が散りばめられているのが最近の恋愛ドラマの傾向だと思う。

かくいう私も御多分に洩れず、最近でいうと韓国ドラマ式のキュンが散りばめられた「Eye Love You」を毎週楽しみにしていた。現実世界でこんなどストレートな愛情表現はなかなかないだろうし(少なくとも日本では)、都合よくキュンとさせるような状況が整うこともないわけだけれども、フィクションだからこそ安全圏から楽しめる、という部分もある気がしている。現実世界でこんなに心乱されることがたびたび起きたらちょっと困る。

そんなこんなでクールごとに恋愛ドラマにキュンとしつつ考察しつつ楽しんでいるのだけど、前述のアンメット9話を観たあと、「これは“恋”じゃなくて “愛”をしたくなるドラマ」だ、と思った。

そもそもアンメットは医療ドラマであって恋愛ドラマではないのだけど、話の中心にあるのは「愛」だと思う。人が人を想い、愛する気持ちは、脳の病を超えて心で伝わり合う。その想いの結実が、9話のラストでこれ以上ないほど表現されていた。

私はこれだけ大量に恋愛コンテンツを摂取してきたわりに、「こんな恋がしたい!」と思ったことがほとんどない。むしろ自分の身に起きるのはややこしそうなので、代わりにフィクションとして摂取することで体内バランスを保っているようなところがある。

のだけど、アンメットの件のシーンを観たとき、初めて「死ぬまでにこういう愛の瞬間を持ちたい」と思った。記憶があってもなくても、お互いが相手を大切に想いあってきた時間の尊さが、凝縮したような時間。胸キュンの明るさとは違って、ゆっくりと二人で沈み込んでいくような、でもしみじみと心の毛細血管にまで染み渡っていくような、そんな「愛」のシーンだった。

アンメットに比べると光る君へのプロポーズのシーンは愛の重さこそないけれど、ドキドキさせるとかキュンとさせるとかを超えて、というかもはや相手(まひろ)が自分のこと(宣孝)を恋愛対象としては見ていないことまで踏まえて、「お前のすべてを丸ごと引き受ける」という覚悟は、完全に恋ではなく愛だ、と思った。宣孝自身も、まひろに対しては恋の過程はすっ飛ばして、ずっと「愛」のまなざしで見守ってきたからこその台詞だったのだろうなと思う。

恋と愛に優劣があるわけではないし、その二つの境界線も曖昧なものだけれど、意外な人に真っ直ぐにアプローチされてキュン!が最近の恋愛ドラマの流れだとしたら、すべてを背負う覚悟を含んだ「愛」の物語が、これからさらに求められていくのかもしれない、とその変化の兆しを微かに感じた。

燃え上がる恋は、時に人の心を焼き尽くす。恋愛は明るく楽しいばかりではなく、相手のすべてを受け入れるにも、自分のすべてを開示するにも覚悟がいる。

恋の楽しさを描くドラマが人に元気と明るさを与えるように、愛の尊さを描くドラマが人の決断や覚悟を変えるかもしれない。

どちらも、私たちには必要な成分なのだ。

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