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出せなかった手紙

片付けの合間に、つい「手紙箱」を開けてしまった。二十歳を超えたあたりからいただいた手紙はすべてその箱の中にしまわれている。むやみやたらと手紙をやりとりしていた中高生の頃に比べると年賀状やバースデーカードの類が多くなってしまったが、ひとつひとつ見返すと「なんでもなかった時間」が思い出されて懐かしい。10代の頃の手紙もこんな風にとっておけばよかった、と思う。

私の住所や名前が書かれた封筒の束に紛れて、何通か宛名のない封筒を見つける。はて、と思いながら封を開けると、そこには見慣れた自分の字が綴られていた。

10年前も今も、内容がまったく同じで我ながらおかしい。成長していないとも言えるし、飽きないとも言える。きっと書いている内容にはあまり意味がなくて、「今年も同じ思いです」と伝えることが大切だったのだろう。

書いたはいいものの投函しないままに手紙箱にしまうようになってから、数年後に最後の手紙を手渡した。それ以来、宛先のない手紙は書いていない。

相手に届かなかった言葉は存在しないのと同じだ。けれど、その輪郭はまだ、たしかに私の手元に存在している。少なくとも私が死ぬまでは、この言葉たちは「なかったこと」にはならないのだ、と確かめるように手紙を抱きしめる。「今」は「あの頃」の延長線上にある。

書いた手紙を相手に届けられることは、それだけでひとつの幸福なのだ、と思う。読まれなかったとしても、目に見えるかたちで相手の存在を肯定することができるのだから。どんなに心の中で幸福を祈っていても、かたちのない「思い」だけで人を励ますのは難しい。思いを可視化させる意義は、そこにある気がする。

携帯を持つようになってから手紙でやりとりする機会はなくなり、手紙を書くときは片道切符ばかりになった。返事がこなくても折りにふれて届けることでささやかな喜びを得るのが、現代的な手紙の楽しみ方なのかもしれない。

去年も同じようなことを書いたな、とペンを走らせながらふと気づく。過去の手紙を並べてみても、違いがわからないかもしれないくらいに毎年飽きることなく似たような文言を綴っている。

そして来年再来年も、私はまた同じような手紙を書いてはポストへ投函しに行くのだろう。手紙が相手に届くかぎり、きっと毎年同じ内容を送り続ける。

「あなたの幸福を祈っています」と、目に見えるかたちで伝えるために。

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