逃げのために本を買わない
子供の頃から、本は「いくらでも買っていいもの」だった。服やおもちゃはおねだりが通用しなかったけれど、本をねだって却下された記憶はない。まあ子供の頃に買ってもらう本なんて千円前後のものばかりだし、大半は図書館で借りて読んでいたので、実際に買ってもらった量はたいしたことはないのかもしれないけれど。
幼少期に「本はいくらでも買っていいもの」と刷り込まれて大きくなったので、いまや本屋さんに行くたびに両手いっぱいに本を抱えてレジに向かう大人になった。値段を見ることがほとんどないので、たまに(いや、しょっちゅう?)合計金額に恐れ慄くことがある。
さらにKindleにもめいっぱい未読本が詰まっているし、図書館で借りてきた本もデスクに積み上がっている。もちろんすべて読み切れるわけではないので、積読本として数年単位で熟成されているものも多い。ちなみにベッドの周りにはしょっちゅう読みさしの本の山脈が形成されている。
私はわりと積読肯定派で、たとえすぐに読まなかったとしてもタイトルや本が放つ雰囲気をもとに「選ぶ」行為が大切だと思っている。読みたい本を選ぶということは、そのとき必要としている情報や気になっているテーマを可視化することでもある。
そしてこの5年ほどで感じるようになったのだけど、ある本を選びとるタイミングは、実際にその内容を必要とするよりも2、3年先を行っていることがある。テーマとしては興味があるけれど今すぐに必要ではないものを無意識に選び、本棚に並べておくと、数年後に「あっ今だ」と気づくときがある。
本との出会いは意外と一期一会なもので、その本が必要になったタイミングでまた出会えるとは限らない。本のタイトルなんてすぐに忘れてしまうものだし、悲しいことではあるけれどニッチで実用的な本ほどなかなか数が売れず、すぐに絶版になったりする。
そんなこんなで、ますます「本はいくらでも買っていいもの」という感覚を強化しながら生きているのだけど、「いくらでも買っていい」は「なんでも買っていい」とは似て非なるものだ、という意識もある。
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