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日本的曖昧性と『道』の成立についての雑感

最近読んだ『数学する身体』が今年のマイベスト本トップ10に入る勢いだったので、熱冷めやらぬうちに備忘録をば。

私はもともと批評家の小林秀雄が好きで、そこから彼と対談していた岡潔を知り、岡潔がきっかけで数学者として『理転』した人が書いたと知って読んだこの一冊。

『数学』という言葉がタイトルに入っているけれどほとんど数式は出てこなくて、ああこれを書いた人は言葉の世界の人なんだな、と思った。

ちなみに私は岡潔も言葉の世界の人だと思っていて、彼の書くものは数字や記号のように万人がほぼブレなく理解できるツールではなく、少しずつ揺れのある言葉というものを心から愛し、表現しようとした人の文章だ。

岡潔が生まれ変わったら数学者ではなく別の仕事をするだろう、と話したエピソードは『数学する身体』を読んで初めて知ったけれど、彼の随筆を読んでいたらたしかにそうだろうなと思う。

彼は数学をするために生きたのではなく、数学を通して自分の情緒を育て、世界の美しさを感じるために今回はたまたま数学という手段を選んだ人なのだと思う。

本の中では芭蕉にとっての俳諧、道元にとっての禅と並んで表現されていたけれど、最近読んだ『茶の本』を書いた岡倉天心にとっての茶道も同様だろう。

ちょうど昨日『弓と禅』という本の中で「あらゆる『道』は禅の考え方を前提としている」という趣旨の文章を読んで、ここ最近読んだものが一気に繋がった気がした。

私たちのあらゆる営みは、自らの人間形成のためにある。

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最近ことあるごとに、中学時代に教えられた『剣道とは、剣の理法の修練による人間形成の道である』という言葉を思い出す。

昇段試験のために半ば暗記として教え込まれたので、当時の私にとっては意味のわからない、ただの念仏でしかなかった。

けれどあれから15年経った今、やっとこの言葉がなぜ剣士としての第一歩目で必ず覚えさせられるものなのかを理解することができたような気がしている。

例えば『茶の本』の中には、こんな記述がある。

15世紀に至り日本はこれを高めて一種の審美的宗教、すなわち茶道にまで進めた。茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々と教えるものである。
茶には酒のような傲慢なところがない。コーヒーのような自覚もなければ、またココアのような気取った無邪気もない。

茶という文化自体は中国から入ってきたものだけれど、それを『道』に高めたのは日本独特の文化だ。

そして岡倉天心が酒やコーヒー、ココアといった例を出しているように、なぜ他の飲料で『道』が成立しなかったのか。

同じような疑問は、『弓と禅』の中でも出てくる。

なんだって、かつては生死を懸けた戦いとして真剣に訓練された弓術が、はっきりとしたスポーツに受け継がれずに、精神修養の一種になったというのであろうか。

同じ『剣』を使う競技でも、フェンシングと剣道を分かつ『道』とは何か。

フラワーアレンジメントと『華道』は何によって区別されるのか。

そして冒頭の数学の話に戻ると、岡潔もまた数学という分野に『道』を見出した人だったのだろうと思う。

岡潔は確かに偉大な数学者であったが、生み出そうとしていたのは数学以上の何かである。彼は、数学を通して心の世界の広さを知った。心の広がり、彩り、自由闊達な動きのあることを知った。そうして狭いところに閉じ込められていた心を、もっとはるかに広い場所へと解き放っていこうとしたのである。(「数学する身体」より)

『日本的なるもの』を考えるとき、そこには常に自然への回帰と自分自身がそこに溶けあおうとする曖昧性がある。

そして武道、茶道、花道といった『道』がついていないものであっても、その行為を通して自らの人間修養に努めることに『道』を感じるのが日本的感性なのではないだろうか。

自らの『道』に邁進するとき、本来私たちが目指しているのは何かを得たり階段を登っていくことではなく、ただひたすらに己の世界観を広げ、世界の美しさを真に『わかる』ことなのだと思う。

普通は、それまでわからなかったことをわかるために、数学者は計算をしたり、証明をしたりする。しかし、「わかった」という心の状態を生み出す方法は、計算や証明だけではない。岡が第三の発見で経験したのは、自己の深い変容により、数学的風景の相貌がガラリと変わり、結果として、それ以前にはわからなかったことがわかるようになる、ということだった。この場合、自己変容の過程そのものが、紙と鉛筆を使った計算や証明とは別の仕方で、彼の心を「わかった」状態へと導いたのである。(「数学する身体」より)

岡潔のエッセイはまだ私にとっては難解なのだけど、理解できた範囲でハッとさせられたのが、「『矛盾』は感情である」という話だ。

矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。そしてその感情に満足を与えるためには、知性がどんなにこの二つの仮定には矛盾がないのだと説いて聞かしたって無力なんです。(「人間の建設」より)

理解する、納得するということは理論ではなく、私たち自身がそれを『わかった』と思える精神状態に持っていけるかどうか、それこそが本当の意味で『わかる』ということなのだ。

そしてわかるためには自分自身がそのものになりきってしまわなければならない。

自分がそのものになる。なりきっているときは『無心』である。ところがふと『有心』に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。(「数学する身体」より)
射手にとって、「無」と「有」は、内的にはまったく違っているにもかかわらず、もっとも緊密に相互に結びついており、互いに指し示しています。有から無への途は、再び有へと戻されます。射手が戻ろうとするのではなく、彼は投げ返されているのです。(「弓と禅」より)
宗匠たちはただの芸術家以上のものすなわち芸術そのものとなろうと努めた。それは審美主義の禅であった。(「茶の本」より)

天才が何かを作り出すとき、そこに『自らの意識は働いていなかった』という言葉がよく聞かれる。

それは決して嘘や謙遜ではなく、本当に人が真善美を見出すときというのは、そのものに同化し、彼我の境が曖昧になり、全体が自分という個に作用するという感覚なのだろう、と思う。

これを現代的に言うと『ゾーンに入る』と表現するのだろうけど、何かを成し遂げるためではなくて、ただその過程に価値があるとするのが西洋的価値観と日本的精神を分かつものなのかもしれない。

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『数学する身体』が面白いのは、数学の世界において日本的精神を高めたことで偉大な真理を発見した岡潔と、西洋的なロジックの積み重ねによって偉大な進歩を成し遂げたアラン・チューリングを対比して論じたところにあると思う。

しかも、どちらがいい・悪いと断じるのではなく、共に『心』の解明を目指した稀代の数学者2人の真逆のアプローチを見せることで、数学という世界、ひいてはこの世界そのものの奥深さが表現されていた。

『私』とは何か。
『心』はどう定義されるべきなのか。
『世界』とは、『美しい』とは何なのか。

あらゆる学問が挑み続けるこの『解けるかどうかわからないパズル』へのアプローチとして私たちができることは、いつか『わかる』状態が訪れる瞬間のために、自らの道を極め、精神修養に努めることなのかもしれない。

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