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「話せる相手」が減るのなら、学ぶ意味はないと思うから

普段小難しい本や海外メディアの記事について言及していることが多いからか、「地元に帰ったらなかなか話が合わないでしょう」と言われることがある。高校の同級生で関東に出た女子は私ひとりだったくらい保守的な片田舎出身なので相手の言わんとするところはわからないでもないが、私自身は「会ったら会ったで話すことはたくさんあるのでたいして困ったことはない」が正直な感覚である。

とはいえ、30代にはいって地元の友人はほとんどが結婚して親になり、一周回って話すネタに困らなくなったのも理由のひとつではある気がする。大学生になってから社会人3年目くらいまでは、高卒就職組と大学進学組の生活スタイルに共通点が少ないし、まだ思い出話が楽しくなる年頃でもなかったのでたしかにお互いの「違い」は今より強く感じていた。私は特に九州から出て行った組なので、「東京の人になってしまったけんねえ」と海外に留学したかのような扱いを受けていた記憶がある。

そんな時期も経たうえで思うのは、自分の成長によって出会う世界を広げることができたとしても、これまで自分がいた世界を否定し理解も対話もできなくなってしまうのであれば学びを重ねる意味がないということだ。

今の私は、地元を出た18歳の頃に比べれば難しい本も読めるようになり、英語でコミュニケーションがとれるようになり、会うことができる人の幅も広がった。自分の言葉を届けられる相手も増え、行きたい場所に行き、やりたいことをやって、自分の責任で生きていけるようにもなった。しかし新しい世界を知るたびに自分がそれまでいた場所から見た景色を捨てていたら、本当の意味で「世界を広げる」ことはできない。得た分だけ捨てていたら、同じ幅のまま場所だけ移動しているのと同じだからだ。

私は欲張りな人間なので、どんな世界も無駄にすることなく自分の中に貯めて持っておきたい。専門分野の知識が増えてより高度なテーマについて話せるようになったとしても、成長する前の自分が持っていた感覚を維持したまま相手と場所にあわせて脳のギアを入れ替えてスムーズに会話ができる人間でありたい。難易度の高いテーマを理解できるかどうかよりも、自分の中にある世界の多様性こそが知性だと思うからだ。

東京に出てきたときは、同じくになのにこうも違うものなのかとしょっちゅう文化の違いに戸惑っていた。けれど今は、人生の約半分を地元と東京というそれぞれに異なる世界で過ごしてよかったと思う。どちらかだけではなく、どちらの世界も知っている人生こそが、私が選びたかった生き方なのだと。そしてどちらも知っているからこそどちらのことも否定せず、さりとて持ち上げすぎず、違いは単なる「違い」でしかないのだとフラットな姿勢で生きていきたい。

隙あらば新しい世界を開拓したいタイプなので、いつか地元でも東京でもない「第三の暮らし」に挑戦する日もくるかもしれない。海外に住むかもしれないし、ライフスタイル自体を大きく変える可能性もある。もし生きる世界が今と大きく変わったとしても、私は今の私のライフスタイルと価値観を否定したり見下したりせず、いつでも今の視点を再現して対話と理解に努められる人間でありたい。

反省することと否定することは似ているようで違う。成長すれば過去の自分が恥ずかしくなるし、元いた場所が色褪せて見え、とるにたらないものだとつい軽んじてしまうこともある。

けれど、自分が通ってきた世界を否定するのは自分自身の否定にもつながる。「自己肯定感」は、自分だけではなく自分が生きてきた世界もひっくるめて受容することなのだと思う。

英語のレベルが上がり、「話せる人が増えるって楽しい」とシンプルでプリミティブな喜びを感じる機会が増えた。そして仕事であれ趣味であれ、私は「話せる人が増えるって楽しい」の感情に突き動かされてここまできたのかもしれない、と気づいた。

知識と経験が増えることで目線が合う人が増え、自分の世界がより豊かに広がっていく。だから私は自分が出会った世界を手放したくないし、せっかく話せるようになったならずっと同じ目線で話せる自分を持っておきたい。

キャリアのためでもなく、名誉欲や自己顕示欲でもなく、私はただ自分の楽しみのために学ぶ。私にとっては「話せる相手が増えること」こそが、学びを得るための原動力なのだと思う。

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