「愛を示す」ということについて


こちらの記事を読ませていただいた。
私がよく考えている「愛をどのように示すのか」ということと重複しているな、と感じ刺激になったので、私なりに解釈したことを書いていきたい。

ファン活動には様々なものがある。コンサートやLIVEに行ったり、グッズを集めたり、二次創作をしたり……。
もちろん、これらは「対象への愛の発露」としてスタートするだろう。
しかし、それらのファン活動はいつの間にか「自己同一性の発露」にすり替わってしまうのではないだろうか。
特に、数字による曲折した競争意識が関わっているときには。言い換えれば、自らが元々志向しない登竜門を、何らかの別な理由でくぐろうとすることという意味合いである。

例えば、私はアイドルマスター(アイマス)が好きなので、そのスマホゲームをよく触っている。そこではイベントがよく行われ、ある形式ではプレイすることで稼いだポイントにより順位がつけられる。好きなアイドルのイベントならそれは燃えるものなのである。
ただ、順位がつくということはとりもなおさずポイントの優劣が露わになるということだ。もしそこで他の競争者に劣っていたり、目標に届かなかったりしたとしよう。

この場合問題とするべきは「ただ一つでも上のいい順位になりたい」という純粋な競争意識ではなく「自分のアイドルへの愛を順位という形、方法で示したい」と志向した場合である。

そうなると私の愛が足りなかったと傷つき、落ち込んでしまうのではないか。
上に引用させていただいた記事には例として絵をTwitterに上げることとが挙げられているが、これも同様に言えるような気がする。いや、創作の場合、他者に認められるかのみで数値化されるのでよりどうしようもなく切実だ(私も短い物語を書いたりするのでわかるつもり)。

そのときに私は思うのだが、あくまで数字が示すのは「その対象のみの多寡」。イベントのランキングはポイントがどれだけ多いか。自分の作品の評価は気に入ってくれた他者の人数(もちろん評価されるのはすごく嬉しいし、めちゃくちゃ励みになるのだけど)。その数字は決して自分が愛するものに向けた愛そのものではない。

愛を示すというのは行為そのものであり、そのれに付随する結果や評価は全く別の範疇(技術や知識、流行など)の問題ではないかと思うのだ。

ただ、他者への愛と自己同一性を切り離して行うのは極めて難しいと感じる。
感覚的に、好きな存在が笑っているとこっちも嬉しくなるし、その対象への愛として作った自分の成果や作品が他者に認められると飛び上がりたいほどだ。人間はそういうふうにできているものなのだろうか。

とにかく、自分の精神をコントロールするためにも、愛すべきものとの距離を測って適切に付き合っていきたいな、と私は考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?