夏はくる、必ず。
昨年冬に父方の祖父が他界し、初盆に帰ってきた愛媛の海だった。
父が転勤族で、私が小学生ぐらいの時に九州に家を構えてからは、ほぼ毎年車で里帰りをしている。6時間ほどかけて。
それはもう長旅になるのだ。
私たちが小さい頃は、夜中車に乗り込み、いつの間にか寝て、起きたら祖父母の家に着いているので魔法のような旅だったが、
年々体の大きくなった妹弟を収納した車は窮屈になって行って、あの魔法の旅は、父母の眠りを犠牲にした地道な旅だったらしいと気づいた。
今年二十二歳になった私は、そんなことに気づく歳になったのかと、少し感慨深かったぐらいである。
しかし祖父はその四倍近く往生して逝ったのだ。
祖父の人生の後半は、あれだけ溺愛していた孫の名前も顔も思い出せず、思うように体も動かない、私のよく知る祖父とはかけ離れた様相だったけれど。
初めて近しい人の死を体験してからの日々は、びっくりするほど代わり映えがなく、祖父の亡骸を見た時も、ああ、知らない人になってしまった、という気持ちの方が強かったように思う。
父がふとした時に浮かべる思い出し涙も、私には非現実的な感じがして、葬式中は祖母の頼りない背中を、これまた頼りない顔をした私がさするしかなかった。
生前、しっかりしていた時の祖父は、とても細やかで気が回りすぎる、信心深い気難しいおじいさんだった。
この上ないぐらい、父と、父の兄と、その子供たちを溺愛していて、里帰りすれば必ず
「子供達がひもじい思いをしないように」
と祖母に言いつけては私達を見て目を細めていたのを覚えている。
でも、優しいばかりではなかった。
私と同い年の従兄弟はよく説教されたし、その度に説教終わりに
「このちゃん(私)が嫌いで怒ったわけではないんだよ、許しておくれよ、な。」
と、涙ながらに弁明しにくる。
子供ながらに、不器用な人だなと思ったぐらいだった。
それにとてつもなく信心深かった。
元旦に里帰りをした父夫婦と、父の兄夫婦、その子供たちを連れて、寺で読経をするのが祖父の誇りだったらしい。
朝6時過ぎに起き、元旦の朝日よりも前に寺に着いて読経を始めるあのルーティンは、今思い出しても子供の私たちにはちときつかった。
眠い目を擦りながら、お経の載った赤い本を手渡され、何度も何度も南無阿弥陀仏と呟いた。
延々に続くと思われたお経が終われば、熱いお茶が振る舞われ、寺で記念撮影を。
まだまだ眠い私たちは招かれるまま祖父の隣へ行き、シャッターの光に余計目をしぱしぱさせた。
その時の祖父の笑顔と言ったら……
そのお経が、今年は祖父の遺影の前で、CDプレーヤーから延々と流れている。
横で正座していた母に、思わず
「じいじ怒りそうだね。」
と耳打ちしてしまった。
あんなに信心深かった祖父のことだ、きっと極楽浄土でCDから流れる陳腐な読経に憤慨していることだろうと思ったのだ。
あれほど一緒に行ったろう、一節ぐらい覚えていてもいいものを、と。
しかし祖母は涙ぐんで
「ありがとう、おじいさんも喜んどるわい。」
と。
いや、多分怒ってるよ、という言葉は飲み込んでおいた。
去年の葬式ぶりに来た祖父母の家だったが、なんだか小さくなったような気がした。
祖母も心做しか小さかった。
祖父は晩年、言葉が出にくくなり、記憶も引っ張り出しにくくなり、歩幅も狭くなり、ついには歩かなくなった。
祖母が1人で介護をしていた大きな家は、去年まであった玄関の手すりが取り払われ、なんだか余計がらんとした。
祖父が脳血栓を起こしたのが、私が小学6年生ぐらいの時だ。それからはだんだんと、祖父の様子がおかしくなった。
私の細かい祖父の記憶はそこで止まってしまっている。
だから、葬式の時の祖父は本当に別人だと思った。
祖父がおかしくなってからも数年、夏と冬に帰れる時は里帰りをしていたが、その時に会う祖父はもう、祖父の皮を被った違う人のような気してしまっていたので、祖父に会えなくなってからもう何年経つだろうと思い返すことがある。
だから、葬式の時も大きな悲しみの波が襲って来なかったのかも知れなかった。
きっと誰かがすでに祖父を攫っていって、その残り香とだけ生活していた祖母が、いたく切なく見えていた。
しかし、今年の盆は違った。
玄関先の仏壇で、生前一番元気だった時の祖父の写真が迎えてくれた時、やっと久しぶりに小学生以来の里帰りをしたよう気になった。
祖父が他界して初めての夏に、久しぶりに祖父にあったような気になったのだから、おかしな話だ。
そんな気分だったからか、子供の頃よく泳いでいた、歩いて直ぐの海に行って、足だけピチャピチャと水遊びをした。
最近は里帰りをしても、海に入りはしなかった。あの頃のように、水着を着て、塩水を全身に浴びながら遠くに浮かぶ船まで平泳をするような体力はなかったし、そういうことより祖母のそばにいるための口実を作ることに忙しかったから。
裸足で波に向かっていって、いつ見てみもここの海は綺麗だね、と、父に笑って話した。
化粧もせず、日焼けも気にせず海で遊んでいた私達は、もう居ない。
海辺で孫たちにスイカ割りをさせるんだ、と、大きなスイカを抱えてきた祖父の姿も、もうない。
ただ、祖父の面影をほんの少し残して歳をとった父と、年頃になって足の指にネイルをした私と、透き通る波打ち際があるだけだった。
夏は来る、必ず。
誰かを失っても、歳をとっても、夏は来るのだ。
きっとまた誰かいなくなる。
新しく生まれるものもある。
それでも、夏は来るのだ。
私はただ、その時初めて祖父が懸命に読経し、何かを願って神に傾倒していた意味がわかったような気がして、波打ち際をゆっくりと歩いた。