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パーリ文字について

南アジア・東南アジア・東アジアの仏教経典の言語であるパーリ語の表記に使用されるパーリ文字の広義の意味は単一の文字体系ではないとされているのですが、狭義の意味では中西印刷の社長だった故・中西亮さんによる松香堂・刊『世界の文字』などで、パーリ文字はミャンマーで11世紀頃からパーリ語を表すために用いられてきた文字体系と定義されています。

ミャゼディ文字―ミャゼディ文字という名称は1112年のミャゼディ碑文パーリ・古モン・古ビルマの3言語表記に用いられた文字に由来―から生まれたパーリ文字はモン文字ビルマ文字などミャンマー系文字のルーツとされ、『The Alphabet: An Account of the Origin and Development of Letters』では方形パーリ文字キウサ文字といったパーリ文字の独特な書体も見られます。

現在のパーリ文字はビルマ文字と同型になっていて、19世紀に『Kachchayano's Pali Grammar』や『Elements of Pali Grammar』などの文法書で、ビルマ文字がパーリ文字として伝わってきた影響もあり、これらの資料はGoogleブックスで確認できます。
パーリ文字ではサンスクリット語・ヒンディー語・英語などからの借用語を示す字母として《ၐ, ၑ, ၒ, ၓ, ၔ, ၕ》がビルマ文字に加わっています。
モン文字・シャン文字・カムティー文字を基盤とした各言語の拡張文字などで一部字母・記号が異なるものもあります。

パーリ語はミャンマーのパーリ文字の他に、スリランカではシンハラ文字, カンボジアではクメール文字, タイではタイ文字あるいはタム文字, ラオスではラオ文字あるいはタム文字, バングラデシュではチャクマ文字あるいはベンガル文字, 欧米や日本ではIAST式ラテン文字――と使用される文字体系が国や地域で異なり、タイではアリヤカ文字というパーリ語のための人工文字体系が考案されたこともありました。

しかし、パーリ語版ウィキペディアではパーリ文字でもラテン文字でもなく、デーヴァナーガリー文字が書記体系として使用されていて、近年のインドでパーリ語表記のためにデーヴァナーガリー文字が使用される傾向を反映しているものと思われます。

ここでは中西印刷のサイト内の『世界の文字』などで定義されているパーリ文字について取り上げます。


パーリ文字

パーリ文字の字母名はデーヴァナーガリー文字の字母名にほぼ近いものになっています。
パーリ語ラテン文字の字母名も原則的にパーリ文字の字母名と同じです。

パーリ語の母音字と母音記号

パーリ文字の母音記号付き字母は、ビルマ語の基本短母音表記に基づき、を基字としています。

エーဧ・အေ》とオーဩ・အော》は、重子音の前では短母音の[e]と[o]になります。

  1. A・a》】[ɐ ア]

  2. アーအာĀ・ā》】[aː アー] - アイは語頭・語中ではĀIအာဣ》[アーイ], 語末・単音節ではĀĪအာဤ》[アーイー]と表記。アウは語頭・語中ではĀUအာဥ》[アーウ], 語末・単音節ではĀŪအာဦ》[アーウー]と表記される傾向がある。

  3. ဣ・အိI・i》】[i イ]

  4. イーဤ・အီĪ・ī》】[iː イー]

  5. ဥ・ဥိ・အုU・u》】[u ウ]

  6. ウーဦ・အူŪ・ū》】[uː ウー]

  7. エーဧ・အေE・e》】[eː エー/e エ] - 本来の字形はモン語E》。

  8. オーဩ・အောO・o》】[oː オー/o オ]

  9. ニッガヒータအံṂ・ṃ, Ṁ・ṁ = AṂ・Aṃ・aṃ, AṀ・Aṁ・aṁ》: အာံĀṂ・Āṃ・āṃ》, ဣံ・အဳ・အိံIṂ・Iṃ・iṃ》, ဤံ・အီံĪṂ・Īṃ・īṃ》, ဥံ・အုံUṂ・Uṃ・uṃ》, ဦံ・အူံŪṂ・Ūṃ・ūṃ》, ဧံ・အေံEṂ・Eṃ・eṃ》, ဩံ・အောံOṂ・Oṃ・oṃ》】[˜ ン/ã アン] - パーリ語ラテン文字ではIAST式の《Ṃ・ṃ》とISO式の《Ṁ・ṁ》の2種類。モン文字の母音記号であるモン語IIအဳ》はパーリ文字では鼻母音Ĩ[ĩ イン]を示す。
    タンザニアの〈ဋံဇာနိယာ / Ṭaṃjāniyā , Ṭaṁjāniyā〉[ʈɐ.ɲʤaː.ni.jaː タンヂャーニヤー]のように破裂音・破擦音・摩擦音の調音に対応する鼻子音を示す用法がある。

パーリ文字の子音字

  1. ကK・k》】 [k ク] - は《ကာ》。促音はKKAက္က》[ッカ]。

  2. クハKH・Kh・kh》】[kʰ ク] - KHĀは《ခါ》。促音はKKHAက္ခ》[ッカ]。

  3. G・g》】[ɡ グ] - は《ဂါ》。促音はGGAဂ္ဂ》[ッガ]。

  4. グハGH・Gh・gh》】[ɡʰ グ] - GHĀは《ဃာ》。促音はGGHAဂ္ဃ》[ッガ]。

  5. ンガṄ・ṅ》】[ŋ ング] - ṄĀは《ငါ》。撥音表記はṄKAင်္က》[ŋk ンカ]/ṄKHAင်္ခ》[ŋkʰ ンカ]/ṄGAင်္ဂ》[ŋɡ ンガ]/ṄGHAင်္ဃ》[ŋɡʰ ンガ]などで、ンガ+アサット+ヴィラーマ+子音字による合成。

  6. チャC・c》】[ʧ チ] - 本来の字形は国際音声記号クローズドオープンEʚ》に似た字形。は《စာ・စါ》, CĀṂは《စါံ》[チャーン]。促音はCCAစ္စ》[ッチャ]。

  7. チュハCH・Ch・ch》】[ʧʰ チ] - CHĀは《ဆာ》。促音はCCHAစ္ဆ》[ッチャ]。

  8. ヂャJ・j》】[ʤ ヂ] - は《ဇာ・ဇါ》。促音はJJAဇ္ဇ》[ッヂャ]。

  9. ヂュハJH・Jh・jh》】[ʤʰ ヂ] - JHĀは《ဈာ》, JHUは《ဈု》, JHŪは《ဈူ》。促音はJJHAဇ္ဈ》[ッヂャ]。代替字形にCAと介子音記号YAの合字စျ》がある。

  10. ニャဉ・ညÑ・ñ》】[ɲ ニュ] - 本来の字形は母音字U》とほぼ同型。二重子音はビルマ文字では単子音字となっているÑÑA》[ɲː ンニャ]となるが《ည္ည》と示されることもある。母音表記でÑĀဉာ》[ɲaː ニャー]/ÑIဉိ》[ɲi ニ]/ÑĪဉီ》[ɲiː ニー]/ÑUဉု》[ɲu ニュ]/ÑŪဉူ》[ɲuː ニュー]/ÑOဉော》[ɲoː ニョー]―という風になる。撥音表記はÑCAဉ္စ・ည္စ》[ɲʧ ンチャ]/ÑCHAဉ္ဆ・ည္ဆ》[ɲʧʰ ンチャ]/ÑJAဉ္ဇ・ည္ဇ》[ɲʤ ンヂャ]/ÑÑAဉ္ဈ・ည္ဈ》[ɲʤʰ ンヂャ]など。

  11. Ṭ・ṭ》】[ʈ ト] - ṬĀは《ဋာ》, ṬUは《ဋု》, ṬŪは《ဋူ》。促音はṬṬAဋ္ဋ》[ッタ]。ヒンディー語同様、英語由来の借用語でタ行音を表す。

  12. トハṬH・Ṭh・ṭh》】[ʈʰ ト] - 時期や地域によって字形が著しく異なるため、タイのモン文字本来の字形をユニコードへの追加要望が出されたこともあった。ṬHĀは《ဌာ》, ṬHUは《ဌု》, ṬHŪは《ဌူ》。促音はṬṬHAဋ္ဌ》[ッタ]。

  13. Ḍ・ḍ》】[ɖ ド] - ḌĀは《ဍာ》, ḌUは《ဍု》, ḌŪは《ဍူ》。促音はḌḌAဍ္ဍ》[ッダ]。ヒンディー語同様、英語由来の借用語でダ行音を表す。

  14. ドハḌH・Ḍh・ḍh》】[ɖʰ ド] - ḌHĀは《ဎာ・ဎါ》。促音はḌḌHAဍ္ဎ》[ッダ]。

  15. Ṇ・ṇ》】[ɳ ヌ] - 本来のパーリ文字では東ポー・カレン語NNA》と同型。ṆĀは《ဏာ》。撥音表記はṆṬAဏ္ဋ》[ɳʈ ンタ]/ṆṬHAဏ္ဌ》[ɳʈʰ ンタ]/ṆḌAဏ္ဍ》[ɳɖ ンダ]/ṆḌHAဏ္ဎ》[ɳɖʰ ンダ]/ṆṆAဏ္ဏ》[ɳː ンナ]など。

  16. T・t》】[t ト] - は《တာ》。促音はTTAတ္တ》[ッタ]。

  17. トハTH・Th・th》】[tʰ ト] - THĀは《ထာ》。促音はTTHAတ္ထ》[ッタ]。

  18. D・d》】[d ド] - は《ဒါ》。促音はDDAဒ္ဒ》[ッダ]。

  19. ドハDH・Dh・dh》】[dʰ ド] - ミャゼディ文字や方形パーリ文字などの本来の字形ではBA《》を上下逆にした字形だが、ユニコード未登録。DHĀは《ဓာ・ဓါ》。促音はDDHAဒ္ဓ》[ッダ]。

  20. N・n》】[n ン] - は《နာ》, NUは《နု》, は《နူ》。撥音表記はNTAန္တ》[ンタ]/NTHAန္ထ》[ntʰ ンタ]/NDAန္ဒ》[ンダ]/《န္ဓ》[ndʰ ンダ]/NNAန္န》[ンナ]など。

  21. P・p》】[p プ] - 促音はPPAပ္ပ》[ッパ]。

  22. プハPH・Ph・ph》】[pʰ プ] - 促音はPPHAပ္ဖ》[ッパ]。英語などのファ行音F》に由来する借用語にも用いられる。

  23. B・b》】[b ブ] - 促音はBBAဗ္ဗ》[ッバ]。

  24. ブハBH・Bh・bh》】[bʰ ブ] - 促音はBBHAဗ္ဘ》[ッバ]。近年はパーリ語がデーヴァナーガリー表記でも用いられる場合があることから、ネパール語BHA》に合わせて、英語などのヴァ行音V》に由来する借用語にも用いられることが多い。

  25. M・m》】[m ム] - 撥音表記はMPAမ္ပ》[ンパ]/MPHAမ္ဖ》[mpʰ ンパ]/MBAမ္ဗ》[ンバ]/MBHAမ္ဘ》[mbʰ ンバ]/MMAမ္မ》[ンマ]など。

  26. Y・y》】[j ィ] - 促音はYYAယျ・ယ္ယ》[イヤ]。

  27. R・r》】[r ル] - 促音はRRAရ်္ရ・ရ္ရ》[ッラ]。

  28. L・l》】[l る] - 促音はLLAလ္လ》[ッラ]。

  29. ヴァV・v》】[ʋ ヴ] - 促音はVVAဝွ・ဝ္ဝ》[ッバ]。

  30. S・s》】[s ス] - 促音はSSAဿ・သ္သ》[ッサ]。

  31. H・h》】[h ハ] - 促音はHHAဟှ・ဟ္ဟ》[ッハ]。

  32. Ḷ・ḷ》】[ɭ ル] - 促音はḶḶAဠ္ဠ》[ッラ]。

拡張パーリ文字

サンスクリット語からの借用語に用いられますが、発音が大幅に変化しています。

  1. ၒ・အၖṚ・ṛ》】[i イ, ru ル, ri リ]

  2. リーၕ・အၗṜ・ṝ》】[iː イー, ruː ルー, riː リ]

  3. ၔ・အၘḶ・ḷ》】[li り]

  4. リーၕ・အၙḸ・ḹ》】[liː りー]

  5. アイအဲAI・Ai・ai》】[eː エー/e エ]

  6. アウဪ・အော်AU・Au・au》】[oː オー/o オ]

  7. ヴィサッガအးḤ・ḥ》】[a ア/Ⓚː ッ] - 語中では子音の前で促音となる。

  8. ガ・シャまたはシャŚ・ś》】[s ス] - 促音はŚŚAၐ္ၐ》[ッサ]。ヒンディー語経由で借用された英語〈SH〉に由来する外来語に用いられる。

  9. パ・シャṢ・ṣ》】[s ス, kʰ ク] - 促音はṢṢAၑ္ၑ》[ッサ/ッカ]。サンスクリット語やヒンディー語由来の借用語に用いる。

合成子音字

パーリ語における合成子音字は大幅に発音が変化し、語中では母音の後で促音及び撥音に変化します。

  1. クシャက္ၑKṢ・Kṣ・kṣ》】[kʰ- ク/-kkʰ- ック]

  2. ヂュニャဇ္ညJÑ・Jñ・jñ》】[ɲ- ニュ/-ɲɲ- ンニュ]

  3. トラတြTR・Tr・tr》】[t- ト/-tt- ット]

  4. ツァတ္ဘTS・Ts・ts》】[ʧ- チ/-ʧː- ッチ/-ss- ッス]

  5. ニャနျNY・Ny・ny》】[ɲ- ニュ/-ɲɲ- ンニュ] - 英語などの〈NY〉に由来する借用語は同じ発音のNYA》ではなく、ヒンディー語に合わせてこの表記を用いるのがルール。

  6. シュリーၐြီŚRĪ・Śrī・śrī》】[si.riː スィリー]

  7. ッサSS・ss》】[-ss- ッス]

介子音記号付き字母

パーリ語特有の促音化などの影響で、ビルマ語やモン語とは発音が異なります。
BRဗြ》[ブラ]など本来の読みが温存されている綴りや、TYတျ》[チャ/ッチャ], DYဒျ》[ヂャ/ッヂャ]など硬口蓋音に変化した綴りもあります。
例外中の例外はウィクショナリーに記載されている【日本】を表す〈ဂျပါန် / Gyapān〉で、パーリ語版ウィキペディアで表記文字体系として用いられるデーヴァナーガリー表記では〈ग्यपान्〉となり、本来のパーリ語読みでは[ɡi.jɐ.pãː ギヤパーン]となるのですが、モン語に近い発音で[ʧe.pã チェパン]と読まれる場合があります。
この他にもパーリ語圏で使用される言語の発音に近い読みとなる例外があります。

  1. Ṅ◌Aင်္အ】……ṄKင်္က》[ンカ], ṄKHင်္ခ》[ンカ], ṄGင်္ဂ》[ンガ], ṄGHင်္ဃ》[ンガ], ṄSင်္သ》[ンサ], ṄHင်္ဟ》[ンハ] - ユニコードではビルマ文字NGA》とアサットヴィラーマの合成で示す。

  2. YAအျ】[-ija- イヤ]……KYကျ》[キヤ/ッカ], KHYချ》[キヤ/ッカ], GYဂျ》[ギヤ/ッガ], CYစျ》[チャ/ッチャ], CHYဆျ》[チャ/ッチャ], JYဇျ》[ヂャ/ッヂャ], JHYဈျ》[ヂャ/ッヂャ], ṬYဋျ》[チャ/ッチャ], ḌYဍျ》[ヂャ/ッヂャ], TYတျ》[チャ/ッチャ], THYထျ》[チャ/ッチャ], DYဒျ》[ヂャ/ッヂャ], DHYဓျ》[ヂャ/ッヂャ], NYနျ》 [ニャ/ンニャ], PYပျ》[ピヤ/ッパ], PHYဖျ》[ピヤ/ッピャ], BYဗျ》[ビヤ/ッバ], BHYဘျ》[ビヤ/ッバ], MYမျ》[ミヤ/ンマ], YYယျ》[イヤ], RYရျ》[リヤ/ッラ/イヤ], LYလျ》[リャ/ッラ], VYဝျ》[ビヤ/ッバ], SYသျ》[スィヤ/ッサ], HYဟျ》[ヒヤ/イヤ] - ネパール語《ट्या/ड्या》やベンガル語《ট্যা/ড্যা》に由来すると思われる表記で、ṬYĀဋျာ》[ʧaː チャー]やḌYĀဍျာ》[ʤaː ヂャー]などという風に英語の短音A》[æ ア]に由来する借用語を表す。

  3. RAအြ】……KRကြ》[カ/ッカ], KHRခြ》[カ/ッカ], GRဂြ》[ガ/ッガ], GHRဃြ》[ガ/ッガ], ṬRဋြ》[タ/ッタ], ḌRဍြ》[ダ/ッダ], TRတြ》[タ/ッタ], THRထြ》[タ/ッタ], DRဒြ》[ダ/ッダ], NDRန္ဒြ》[ンダ], PRပြ》[パ/ッパ], BRဗြ》[ブラ/バ/ッバ], VRဝြ》[バ/ッバ]。

  4. R◌Aရ်္အ】……RKရ်္က》[ッカ], RGရ်္ဂ》[ッガ], RCရ်္စ》[ッチャ], RJရ်္ဇ》[ッヂャ], RṬရ်္ဋ》[ッタ], RḌရ်္ဍ》[ッダ], RTရ်္တ》[ッタ], RTHရ်္ထ》[ッタ], RDရ်္ဒ》[ッダ], RNရ်္န》[ンナ], RPရ်္ပ》[ッパ], RBရ်္ဗ》[ッバ], RMရ်္မ》[ンマ], RYရ်္ယ》[イヤ/ッラ], RLရ်္လ》[ッラ], RVရ်္ဝ》[ッバ], RS《ရ်္သ》[ッサ] - ユニコードではビルマ文字RA》とアサットヴィラーマの合成で示す。

  5. LAအ္လ】……KLက္လ》[カ/ッカ], GLဂ္လ》[ガ/ッガ], PLပ္လ》[パ/ッパ], BLဗ္လ》[バ/ッバ], MLမ္လ》[ッラ]。

  6. VAအွ】……KVကွ》[カ/ッカ], KHVခွ》[カ/ッカ], GVဂွ》[ガ/ッガ], TVတွ》[タ/ッタ], DVဒွ》[ドヴァ/ダ/ッダ], PVပွ》[パ/ッパ], SVသွ》[サ/ッサ]。