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Electro-Shock Blues 1

「中年の危機」というやつを感じている。ぼくは今47歳なのだけれど、何だかどんなことも手につかなくて困っている。いや、仕事はできているのだけれど仕事はぼくにとって一種オートマチックに身体を動かす運動のようなものなので、これは「慣れ」の力でできているとも言える。でも仕事を離れると、いったいどんな本を読みどんなことをエンジョイしたらいいのかさっぱりわからない。時間がどんどん流れていき、何も手につかず生み出せなかった虚しさだけが手元に残る。でも、とりあえず生きていくことはできている……。

ああ、人生に疲れた時、人生の意味のなさに圧倒された時はどうしたらいいのか。そんなこと、学校でも会社でも教えてくれるわけがないのだから自分で探すしかない。ぼくはこんな時、中島義道という哲学者(という形容を彼は嫌がるだろうけれど)の本を読みたくなる。彼が記した『孤独について』や『観念的生活』を読み、そこで展開されている思考に唸りながらぼく自身のことを考える。圧倒的な才能の差から、ぼくは中島のようにカントを読みこなし考え抜くことはできない。ぼくはぼくで徒手空拳でいろいろやっていくしかない。

ぼくは自閉症スペクトラム障害を抱えていて、嘘をつけないわけではないけれどその嘘は本当に下手だ。だから、自分の中で生まれる生きづらさに関してもダイレクトにそれを見据えて何とかそれを乗り越える術を探る、という生き方しかできないようだ。どうやったらこの鬱を乗り越えられるのだろう。どうしたら……ふと又吉直樹が『夜を乗り越える』という本を書いていることを思い出した。あの本を読み返し、また文学を読むのもいいのかもしれないな、と思う。文学にはそうした鬱のプロフェッショナルがゴロゴロいるのだから。

ああ、あと何年生きられるだろう。そして、いったい何を残せるか……こんなことを考えるのは自意識過剰というものだろう。何も残せなくても、ただ生きただけで人の生は実に尊い。でも、それもまたぼくにとっては「綺麗事」のようにも思う。今、ぼくにはさしあたって夢というものがない。希望というものなら少しはある。英語を学び続け、こうして文章を書き続けることがぼくに残された武器なのかもしれないと思う。その武器を使って、自分の中に巣食うモンスターとしての鬱と戦うべく、今日もぼくはこうして文章を書く。

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