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公正世界信念についての自省(グノーシス風味を添えて)

この記事は

『日々の思いを忘却に任せず記録しよう』と始めたnoteなのだから,せっかくなので自分を取り巻く世界についてこれまでどのように感じてきたのかを書いておこう

という記事である。そんなに長くはない。なぜなら大したことは考えていないから。

"公正世界信念"というものがあるのだが,まあ何かと言うと,この世では正義は栄え悪は滅びるべきであるというつよーい思いのことだ。現実の世界はなかなかそのようにはできていないようだけれども,10代の終わりころまでの自分は些か他罰的だったので『天に代わって俺が悪を滅ぼすぞい』くらいのことを考えていたように思う。とにかくいろんなことに立腹し,ぷんすかしていた。

公正世界信念の持ち主が世界の不公正さに直面した時,《前世の報い》とか《来世で罰される》とか《死後に裁かれる》とか《狐の祟り》とか考えて折り合いをつけることがあるらしいが,物理学徒であった自分はそこまで柔らかい頭を持つこともできず,まぁほんとにぷりぷり激昂することが多かったものだ。

それから,たぶん20代に入ってすぐくらいの時,京都の東大路通を自転車で北上して東鞍馬口通を少し過ぎたあたりで突如天啓を得て,

世界は公正じゃない,もうそういうものなのだ,というかなんで今まで世界が公正だと思っていたのか,信仰を持っているわけでもないのに不思議だね

と,巷で言うところの"憑き物が落ちた"ような思いを抱いたのであった。この時の気持ちは今でもたまに反芻していて,よく憶えている。公正世界信念を脱ぎ捨てた瞬間であった。これは気持ちが良かったですね,思わず自転車を手放し運転するくらい気持ちが良かった(危ないね。時効だ。)。

まあその後も不公正を見ればあいかわらず怒りもするが,たとえば知らない他人が赤信号を無視して横断歩道を渡っているところを見て怒髪天を突くようなことはしなくなった(それまではしてたのだ。瞬間湯沸かし器さながらである)ので,人間って変わるものだなぁとしみじみ思う。

柊の葉は,若木の頃は鬼柊などと言われ鋭いトゲを持ち,触れなば刺さんという狂犬のような様相を見せるのだが,長じてゆくにつれ葉のトゲは小さくなってゆき,老木になると全くトゲのない丸い葉になってしまう。本当の話だ。私もかくありたいものだ。

さて憑き物が落ちたその後だが,まず自分の行動はといえば,世界が不公正にできてるんだ俺だってその世界の一員だ,とばかりに無法な振る舞いをしたり,いやいや世界がどうあろうとも己は節を保って生きよう,と考え直したりという減衰振動があった。今でもちょっとあるが,闇落ちしつつあると家人が叱ってくれるので比較的真っ当に生きている。

世界に対する見方は『基本的には好きにしろ』だが,それだけだともはや世捨人になってしまうので,世の不条理不公正を見た時には『まず怒り,それを克服する』というようなことを習い性としている。腹をたてる以外に,自分にできることを落ち着いて考えるのが大切だ,それが建設的というものだね。

以上が今日の自省である。長くならないと思ったが,そこそこ長くなった。

余談だ。
グノーシスというのはまあ信仰のあり方のひとつなのだが,簡単にまとめちゃうと,
『虚心坦懐に見た時,世界には不公正と悪があまりにも多くはびこっている。神がこの世界を作ったというのなら,悪の世界を作った神が善なる神であるはずがない。この世界を作ったのは悪の神である。しかして,悪の世界にありながら我々人間が善を希求することができるのはどうしてなのか。これはきっとこの世界を作った神とは違う善なる神の少なくとも一部の恩恵が,我々人間にも届いているからに違いない。我々はその善なる神からの恩恵を大切にし,善なる神に少しでも近づけるようにしなければならない。我々は悪の世界から離れなければならない』
というような思想である。善悪二元論とか,背世界的とか言われたりする。

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