茶の湯と禅
「〇〇先生は名誉師範になるんだって」
まだ全然身についていない四家伝の稽古中、先生は口をへの字にしてつぶやく。
「そんなに名誉が欲しいのかしら」
あぁ、始まった。
その場にいる面子のせいなのか、それとも平日の夜という1日の疲れやモヤモヤが溜まる時間帯のせいなのか分からないけれど、平日夜のお稽古はとにかく、世間話が盛り上がる。
お稽古を有意義なものにするために、自分が学ぶことばかりしか考えず、その場の和やかな空気を壊すようでは、そもそも、人をもてなしかたを学ぶ茶人として失格だ。
そんなことを胸にとどめながら、世間話は聞くふりをするにとどめてお点前に集中するのだけど、集中できるわけもなく。
最近は中学生の社中さんがいることが嬉しく、彼女を早く一人前の弟子にしようと考えていることが先生の発言からよく分かる。大人気ないかもしれないけれど、先生が誰かひとりをひいきにするのは、一社中として気持ちの良いものではない。
市中の茶の湯というのはこんなものか。
なんだか私が「逃げる」ような感じになってしまうのだけど、茶の湯を本当に学ぶのであれば、この稽古場とは別の居場所を持つのも選択肢の一つかもしれない。
日本の歴史に関する外国の本で、茶の湯が「動く禅」と紹介されていた。
外国、遠いところにいる人たちの方が本質を掴んでいるなんてこともあるのかもしれない。
突飛な考えだけれど、パリのソルボンヌには、文化と食を融合した学問があるようで、そういう学びの観点から茶の湯を見つめてみるのもおもしろいかもしれない。
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