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十字屋敷のピエロ・東野圭吾

今回読んだのは、十字屋敷のピエロ・東野圭吾・講談社文庫・2020年10月9日第91刷発行。


この小説を読んでいって、まず、ユニークであるという感想を持った。それは、「ピエロの視点」という構成が、である。ピエロはただの人形だ。なのに、まるで人間のように、その目で見たことを、小説の途中途中で、一人称「僕」の視点で、読者に向けて語ってくれるのである。

どうなってるんだ、これは。読者の僕は思った。ひょっとして人形の目に小型カメラが仕込んであって映像としてみれるしかけなのか。あるいは人間の心を高再現する人工知能を持つ人形なのか。でも待てよと。この小説は80年代に書かれたものである。あの時代、小型カメラも人工知能もなかったはずではないか。ならば、これはSFか。でも東野圭吾といえば「THE  ミステリー作家」であり、SF作家のイメージはない……。

僕は混乱した。同じく多くの読者も混乱を抱く構成だと思う。

講談社文庫版の解説で、高橋克彦はいう。探偵では事件は目撃できないし、渦中の人物では必ずどこかでアンフェアな描写を余儀なくされる、と。とすれば、単なる、作者の、読者へのサービス精神による戯れの表現方法のようなものなのだろうか。いや、でも百戦錬磨、一筋縄ではいかぬ、傑作ミステリを数々作ってきた東野氏のことだ、なんらかの重要なトリックをそこに仕掛けてそうだけど、はたして……。


そんな期待を頭に置きつつ、読み進めていった。お話は、金持ち一族が集ったお屋敷内で起こるどうせ金絡みだろ的な殺人事件というもののようで、まあよくある設定のミステリ小説であり、テレビドラマやコミックでも散々使い古されているし、ミステリファンには退屈な設定であるとも思える。だが、小説内に度々顔を出すこのピエロの視点なるものが、そんな退屈ゆえにとどこおりがちだった僕の読書に、潤滑油のように機能してくれた。ピエロの視点で描く文章が友人のように親しみをもたせるいいパートであり、読むたび次のそれ次のそれと早く読みたくなり、小説の主パート部分をせっせせっせと読ませる。ピエロ、なかなかニクイヤツ。


と、なんかピエロの視点のことばかり語ってしまっているなー。小説のあらすじのほうもちゃんと紹介しなきゃ。


竹宮水穂は一年半ぶりに十字屋敷にやってきた。上空から見ると十字形の屋敷のため十字屋敷と呼ばれている。出迎えてくれたのは、家政婦の鈴枝と、屋敷の主人の竹宮宗彦の一人娘である佳織。水穂の従姉妹にあたる。生まれつき足が悪くて車椅子で生活している。佳織の母の頼子が昨年の暮れに自殺したので、落ち込んでいるかと思ったが、明るくもう立ち直っているようだ。その後、水穂は二階に上がり、静香の部屋に挨拶に行った。静香は頼子の母である。部屋には、美容師の永島もいた。彼は、月に何度か静香の髪を整えにやってくる近くの美容師だ。部屋で話していると、人形師なる者が訪ねてきた、と鈴枝が知らせにきた。応接間に行くと、変わった風貌の、年齢三十前ぐらいの男が待っていて、悟浄と名乗った。彼はいう、以前頼子さんはピエロの人形を都内の骨董品店で買いましたよね、あれは悲劇のピエロで買った人はみな不幸になっています、ピエロは亡くなった私の父が作ったものである、父は人形のことを気にしていた、私が買い取り処分したい。静香は、処分はしてもいいが屋敷の主人の宗彦に許可を得ないで勝手に渡すわけにもいかない、と思った。主人はいま出かけているので明日来てください、と悟浄にいった。悟浄は帰っていった。

夜になった。屋敷にいるのは、水穂、佳織、静香、鈴枝、永島のほかに、宗彦、近藤勝之和花子夫妻(水穂の叔父叔母)、松崎良則、青江仁一(屋敷に下宿する大学院生)、である。宗彦は竹宮産業の社長、勝之と松崎は竹宮産業の取締役である。

翌朝。水穂はベッドの中で悲鳴を聞き、行ってみると、宗彦の死体が見つかった。死体の上と周囲にはジグソー・パズルが散らばっており、ピエロの人形もあった。それだけではない。傍らには、ナイフが刺さった秘書の女の死体もあった。秘書は前日の夕方には姿があったが、夜の晩餐会には出ずに帰ったはずであり、謎である……。


長々と書いてみたが、ここまでほんの序盤です。三百ページ超えを読み切ったとき、僕はスゴイゾスゴイゾコレハスゴイゾと唸ってしまった。どうせ金絡みだろとかほざいてすまん。いままでたくさん読んできた東野圭吾作品(数えてみると初期作品を中心に19冊だった)のうちで、最も難解ではないか、と思った。最も完成度が、と思った。なにがどうしてスゴイかをここでつまびらかにするわけにもいかないで、小説批評でよくいわれる、ミステリは人間味が描かれないということにフォーカスをあててみる。この作品で人間味がないとまっさきに読者のみなが感じそうであろう二人の登場人物についてだ。それは、青江と悟浄の二人である。

彼らが登場して早々出てくる彼らへの「人間的なものを感じることができない」「まるで機械みたい」「映画に出てくる吸血鬼を連想した」といった表現は、読者に、彼らをどこか「キャラクター」的な存在としてイメージさせるのではないだろうか。だが、後々まで読んでいくと、そうでもないのだ。たとえばどこがそうかをいちいち挙げることは面倒でもあるからしないので、ぜひ読んでいって感じ取ってほしい。

とにかくそういうことで、青江も悟浄も人間味なんて十分なくらい保有している。

結局なにより、一番人間味がないのはなによりも犯人であろう。そことの対比として、目で見て考えて語りかけてくるような人形という人間ではないものを、作品構成に、狙って据えた、作者の逆転的発想の巧さ、力技には、感服を禁じえない。


☆ 十字屋敷のピエロ・東野圭吾・講談社ノベルス・1989年1月刊行。講談社文庫・1992年2月15日第1刷発行。


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