見出し画像

佳桜忌

「ある人のツイートで、今日が岡田有希子の命日であることに気がつかされた。」

この書き出しで2012年に長い想い出を書いていた。
以下引用転載。

========
ある人のツイートで、今日が岡田有希子の命日であることに気がつかされた。

岡田 有希子 : 日本のアイドル歌手。1967年生まれ、1986年4月8日没。26年前の今日、四谷四丁目交差点のところにあった、所属事務所のサンミュージックのビルの屋上から飛び降りて亡くなった。
このことに何年かに一度気づかされるたびに、個人的な思い出がよみがえってくる。

当時私は、そのサンミュージックのビルと通りを挟んだ向かいにあるビルの中の職場で働いていた。6階にあった全面窓のオフィスから7階建てのサンミュージックがよく見えた。夜になると、明かりのついた向こうのフロアでダンスのレッスンをしているのが見えることもあったとは、同僚の話だが、私が勤め始めていたころにはいつもブラインドが閉ざされて、そんなシーンを目撃したことは残念ながらついぞなかった。

私のほうのビルの地下には、遅くまで開いているビルのオーナーの会社の社員用の食堂があり、外部に開放していたので、残業の時は比較的よくそこで食べたが、時たまお向かいさんで働いている人も食べに来ていた。その食堂で、松田聖子や酒井法子やだれそれに偶然会ったという同僚の話も聞いたが、私は27歳になっていて、誰かアイドルのファンでいるというようなことから卒業していて、松田聖子や岡田有希子はともかく、そこに所属している若いタレントの顔と名前がほとんど一致しなくなっていた。だから、ほんのたまに見かけるマネージャーに連れられたタレントとおぼしき少女が、酒井法子やはたまた私が名前を知らないアイドルか、まだデビューしてもいない「アイドルの卵」なのかも分からなかったし、さして気にもとめなかった。岡田有希子なら見れば知っているはずだがついに一度も見かけたことはない。

その日、お昼休みに外で食事しに出たときサンミュージックの前が騒然としているのに気づいた。それを横目に見ながら迂回するように通りすぎ、食事をして会社に戻ると、その原因が、12時をしばらく回ったころに起きた岡田有希子の飛び降りであることを教えられた。そしてそこで初めて、騒然とする現場を通りすぎる時にちらりと横目に見えた、覆いを被せられた膨らみの下にあった物が何だったかということに思いがいたり、愕然とした。

記録によると彼女が飛び降りたのが、12時5分とも12時15分とも。お昼休みにもう少し私の出るのが早ければ、その時間にそこを通っていた可能性もある。サン・ミュージックの1階、つまり現場の地上のすぐ正面はお弁当屋さんになっていて、私もときどき利用し、毎日お弁当を買いにいく同僚もいたので、場合によっては私の職場から誰か巻き添えになっていたかもしれないと思わせるくらいの、物理的にも心理的にも近しい距離感のある場所で起った事件だった。

その日、お昼になる前、11:30ごろだろうか、仕事に行き詰まり窓の外の向かいのそのビルをしばらくぼうっと見ていたことも思い出す。時間がずれていて、顔をあげて眼を外にやれば、一人の若い女性がビルの屋上から飛び降りようとする姿が見えていたのかもしれない。そんな状況のところで机に向かっていたということが、そこで仕事をしながら、しばらく頭を離れなかった。

岡田有希子の飛び降りの事件の記録に触れるたびに、一連のそんなことを思い出す。そして、そのあと何十人もの後追い自殺があったことをも。繁栄の中にそんな危うさ秘めた時代の雰囲気。1985年から1994年までそこで仕事をしていたときの様々なこと。そのあとずっと日本にいなかったぶん、バブルが膨らみ萎んでいく、そうした時代が私の中に残したものからまだ自分が完全に吹っ切れていないことも感じながら。

お昼の食事のためのパスタが切れていたので、駅のほうへ買い物に出たとき、ある評論家の岡田有希子についての一連のツイートを見て、夕方の約束まで少し時間があると思ったら、ふと、猛烈に、その場所を猛烈に再訪したくなった。2006年に日本に戻ってから一度も足を踏み入れたことはない。1時間以内に行ける距離にある。かつてはさらに2駅遠いところから毎日通勤していた。

駅ビルのスーパーでパスタを買う代りにそのまま中央線に飛び乗った。人々が黙祷するという12時15分には間に合わなかったが、地下鉄に乗り継いで12時半過ぎにはその場所についていた。

区画整理のため、近辺の雰囲気はやや変り、私の勤めていたビルはまったく立て替えられていた。サンミュージックのビルは同じだが、プロダクションは移転し、別の会社が入っていた。

まばらに訪れる人がいて、ひっそりと花束が置いてあるというイメージに反して現場には30人くらいの人がいた。区画整理で道の形がやや変っていて、現場は花壇になっていた。それが祭壇のようになって、花束だけでなく、レコードやブロマイドも飾ってある。

後からネットで見たら、12時15分にはちゃんと追悼式があって100人ほどの人がいたという。

8割は男性。「おたく」の先駆けがそのままおじさんになったような感じの人たちと言っていいだろうか。岡田有希子本人が生きていれば44歳。その前後の年代の人たちだろう。女性もいるし、カップルもいる。男女のグループでお久しぶりなんて挨拶を交している人たちは、年に1度ここで会うというような元ファンクラブの人たちなのだろうか。大きな荷物を引っ張っている男性は、遠くから泊りがけできているんだろうか。グループで世間話をしながら帰っていった人たちはこれからオフ会に行くのかもしれない。

今年は日曜日ということで特に多くの人が来れたのかもしれない。それにしても、あれから26年。そして、10年たっても20年たっても来続ける人は多いんだろうなあと思わせる雰囲気がそこにあった。

ファンということで来ているのではない私はよそ者といううことになるが、それほど気にするほどことになるようなものではなかった。感慨にふけりながら、じっと花束を見ている人にまじって、しばらく立っていたが、事件後はじめてそこに手を合わせた。たぶん、そこに来ている多くの人と違って、私のばあい、自分の中で何かずっとわだかまりのようになっていた「岡田有希子事件」に小さなピリオドを打ったような気がした。

帰り道、よくやっていたように、御苑前から新宿駅まで歩いたが、私が知っている店はもうほとんどなく、どの店も花見客で混んでいたので、そのまま駅までたどり着き、帰りの中央線に乗った。


(岡田有希子のファンの間では、今日は佳桜忌と名づけられているそう。2012年、佳桜忌に)

=========

これを書いてからさらに、9年経っている。

4月のはじめというのは、自分にとっては、ほんとうは心機一転新しく始めないといけないのにまだ前年度のカタが付かず、ぐずぐずとへんに引き裂かれている中途半端な時期。ぐずぐずとしているのに、時計は否応なく進行して無理矢理ひっぱり出され、それに対応しなければならず、April is the cruellest month ... ののココロが日本の文脈が加わって妙に実感される。

そんな時期にあたっているから余計不思議と思い出すことになる。

2012年にこれを書いたときと違って、その後近辺を通る機会が増え、そのぶん、封じ込められていた記憶は薄れていく。

親しかった友人の命日や親戚の法事でさえ33回忌を節目とし、年月が過ぎればどんどん遠いものになっていくのに、思春期の一時期好きだった一人のアーティストのために、毎年同じ日の同じ時刻に30年以上も足を運び続けようとする人たちがいるのにおどろく。岡田有希子の活躍期間は2年しかない。

そのフィデリティに、思春期の一時の熱狂から「卒業」しない一種の怠惰さを見ることもできようし、熱狂を静かに持続するエネルギーや愛に変える力の存在を認めることもできる。あのあと多くの後追いが出たが、その死者たちも、その持続に与っているのかもとも思う。

(あのとき撮った、遺影や花束いっぱいの現場の写真もあるが、なんとなくアップする気にはなれなかった。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?