海辺のエトランゼ

 空いた時間に何か映画を観ようと思ってアマプラを開いたら、ちょうど1時間弱のアニメ映画が目についた。サムネイルのやわらかい絵柄にも、男性同士の恋愛を描いていると説明するあらすじにも興味を惹かれたから、あまりためらわずに再生をはじめることができた。

 でもやっぱり、私にとって恋愛、とくに恋愛の嫉妬し嫉妬されという側面は、共感が難しいという意味で苦手だな、とあらためて気づかされた。そこに恋愛特有の痛みがあり、そして醍醐味があるのかもしれない。だから私は恋愛話に花を咲かせることも苦手なのだろう。ついその前段階の憧れにある苦悶のなかに留まってしまう、そこで、ひとりで満足してしまう。

 負の側面ばかりではなかった。私にとって、という話が続いてしまうけれど、サムネで観た絵柄以上に、動きのなかにある絵は魅力的に映った。最近『平家物語』も観たのだが、色彩にこだわりのある風景描写は、表情や声色とも違った、静かな心理描写としてとても有効なのだと実感した。このことはかなり「文学」だと思う。文字の上に、そのような風景を「翻訳」するとしたら、と考えるとまた別のたのしみが生まれる。

 もうひとつ、得たものとして、印象的な場面があった。ふたつ。駿がクラスメイトの会話を聞いてしまうシーンと、実央にそのトラウマを払拭する言葉をかけられるシーン。どちらも「他者」の声だった。傷を残すものも、それを癒すものも「他者」の声だ。自分が何かをつくるとき、そこにちゃんと「他者」の声は響いているだろうか、ちゃんと自分を救えているだろうか。そういうことを、ずっと意識していたい。

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