「Serial Experiments Lain」放映、1998年という時代。
VRChatへ「Serial Experiments Lain」の世界がやってきました。
お話しの内容としては、ワイヤード(こちらで言うところのインターネット)と基底現実との境界が曖昧になりつつ、それにより自我のもつ狂気や葛藤がうきぼりになる様相ですが、現在において、PC通信時代から育まれたそれらの苗木がVRSNSへ到達してとうとう花開いた感があり、ここVRChatにその表現が敷設されたのも、納得しかないというのが、個人的な感想です。
たいへん嬉しい出来事なのですが、原作リリースから歳月が離れただけに、多少困惑する声も見られました。
これは、このままでは「lain」が、「昔流行った、なんだか妙なもの」で消費されてしまうのではないかという危機感から、ちょっと書いてみようと思い立ちました。
そこで今回は、一個人として、lainがまとっていた空気感について、その時代の感覚と共にお話しさせていただきます。
※もちろん、本稿に書かれた内容はQuieter個人の一感想である事に、ご留意下さい。
では、まずは、何で?と感じかるかもしれませんが、lainのエンドクレジットをご覧ください。
仲井戸麗市(CHABO)「遠い叫び」
98年という時代について
Wikiからの摘出になりますが、ざっと目を通してみましょう。
平成は10年。国内市場におけるCD生産が史上最高を記録し、VHSビデオカセットの売り上げも国内史上最高となりました。
サブカルという文化が完全に花開いた感があるのもこの時代です。
郵便番号は5桁から7桁になり、長野にて冬季五輪が開催されました。
明石海峡大橋が開通し、相撲では若乃花・貴乃花が初の兄弟横綱となりました。
銀行系列の消滅、吸収合併が進み、NPO法が施行、ケイディディ(KDD)株式会社が発足しました。
和歌山で砒素入りカレーが事件となり、これの影響か年の漢字一文字が「毒」となりました。なんと今年8月には映画化されるそうです。
Windows98日本語版が発売し、Apple社がスケルトンiMacで爆発的ブームを引き起こしたのもこの頃です。
この年の故人にはアラン・シェパード、黒澤明、石ノ森章太郎、hide(X JAPAN)が名を連ねています。
音楽市場では、SMAP「夜空ノムコウ」初のミリオンヒット。
この年にメジャーデビューしたのは、モーニング娘、椎名林檎、ゆず、aiko、宇多田ヒカル。
映画では、庵野秀明の「ラブ&ポップ」。北野武の「HANA-BI」などが話題となりました。
アニメ業界では、「カードキャプターさくら」、「おじゃる丸」、「COWBOY BEBOP」、「彼氏彼女の事情」、そしてもちろん
「Serial experiments lain」等々が放映開始されました。
ゲーム業界では、プリクラが絶世期を迎え、またpop'n music、Dance Dance Revolution等も稼働開始しています。
家庭用機にもドリームキャストやゲームボーイカラーが登場し、ソフト面では『バイオハザード2』、『メタルギアソリッド』、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』、『ソニックアドベンチャー』、『街 〜運命の交差点〜』等、後に伝説化していくラインナップもこの年です。
また毛色は変わりますが、ホラー業界の当たり年でもありました。
上記のバイオ2はじめ、「ハウス・オブ・ザデッド」、「クロックタワーゴーストヘッド」、「エコーナイト」がこの年で、翌年には「サイレントヒル」、「夕闇通り探検隊」などがリリースされています。
ホラー映画業界も金字塔となった「リング」を皮切りに、ジャパニーズホラーとしての立ち位置をその界隈で確固とさせ始めたのもこの年ですね。
一見して、市場文化が活性し、文化華やかかりしに見えるこの年に、「lain」は放映されました。
では何故、lainにまとわりつく歪で不可解な出来事が、作中ではクローズアップされるのでしょうか?
これは令和一桁年度の私達にも無関係ではない要素があるのです。
ひとつづつ紐解いていきましょう。
インターネットというブラックボックス
1998年は日本のインターネットの歴史において正しく黎明期といって差支えがないでしょう。この年の日本におけるインターネットの人口普及率は13.4%でした。
ただし、そのネット人口に先駆けて、「インターネット」や「パーソナルコンピュータ」の話題は先行して沸き立っていたようです。
なぜでしょうか?
1996〜1998年に何がおきたのか?
これは先進テクノロジーが一般に広まる前に必ず起こる現象で、「未知を恐れると同時に知りたくなる」という知的生命体が逃れられない性質によるものです。
そしてこの経験を現在のみなさんも今、まさにご体験なさっていると思います。現在では「AI技術」の台頭にこれが当たります。
そして皆さんもご覧になっているように、日夜SNSでは先進技術の行方と、その脅威について喧々諤々の論争が繰り広げられ、その矛先は、オカルトやスピリテュアルも巻き込んで、楽しい様相を見せています。
恐れと好奇心。未来への虚脱感と盲目的信仰。
そう、これが「Lain」の空気感を作り出している一側面でもあると考えます。
この頃は、ネットワーキング技術が、何か得体のしれないものを起こすのでは?または既存の大事なものを寸断、破壊するのでは?という淡い悲壮感が漂っていました。
ちょっと横道にそれますが現在。
この記事を書く前後には、大手ネットメディア「ニコニコ動画」がサイバー攻撃を受け、また時を同じくして角川から「回路」というホラー映画が限定無料公開されました。
この「回路」も恐らく当時の空気感より生まれた、「lain」の異母兄弟と言ってもいいかもしれませんね。
世紀末終末論とミレニアム問題
1998年という時代そのものにも、不安感を呼び起こす要素がありました。いまでは検索してもすっかり影を潜めた、「世紀末=終末」論も、この頃は花盛りでした。
当時からもミーム化していましたが、キバヤシさんも元気でした。
ノストラダムスの予言。今はもう世間話と化していますが、この頃多くのメディア題材として「世界の終焉」はホットな材料でした。ノベルゲームでもこの頃はトレンドでしたね。
そして、次に「2000年問題」と言われるものです。
これは既存のコンピューティングシステムが2000の年号に対応していないとことから、時系列が乱れ、それによるシステム優先順位が乱れ、ことによると、医療や、原子力、また軍事にも予測が難しい、壊滅的な有事を引き起こすのでは?という不安から巻き起こった厭世感覚です。
これらのマクロスケールの薄い不安感は、上述した通り、ホラー文化のよい苗床として機能し、質・量ともに安定したそれらを醸成しました。
ソーシャルネットワークの萌芽、原罪と孤独。
ネットワークが広がるにつれて、「情報」というものが、新聞・ラジオ・TV
や国家・機関から個人間が扱えるものとして形を変えてきました。もちろんこの頃にはSNSはまだ発達していませんが、個人情報ページの群雄割拠や、情報のまとめサイト、そして掲示板文化が花開こうとしていました。
もちろん純然たるパソコン通信の文化も根底にはありましたが、多くを受け持つライト層が食い込んだのがこれらでした。
そしてその情報の開示性は、二つの大きなカタストロフを、それとは気づかせずに多くの人々へと引き起こしました。
「世にまかり通る不正、理不尽、不条理を知らない」という保護の崩壊と、
「世間と相対した、自己自身の評価の限界基準点」の保護の崩壊です。
ひとつ、情報を手にしたことにより私たちは、知らない自由の破棄に至りました。
世界のあらゆる場所でなされる不条理も、もはやお隣さんの痴話喧嘩並みに耳へ入って来ます。これにより多くの者が無意識化で持つ「良心」に「知ってはいるが救わない」という要らぬ原罪を人々がお互いに掛け始めたのです。
ふたつ、マイナスな情報だけでなくプラスの情報も、もちろんやってきました。
しかしそれは、特定のジャンルにおける主戦場が、今までは各地域、各年代、各文化で分かれていた垣根を打ちこわし、全員を同じ土俵に押し上げました。
少数のトップ層のみが勝者として、膨大なそれ以下のプレイヤーは自身を敗者として位置付け、その負い目から孤独を呼ぶ悪循環がこの頃より生まれ始めました。
全てではありませんが、こういった時代の変遷が、lainを取り巻く空気感に現れていると私は感じます。
当然、デジタルネイティブと呼ばれる世代にとっては、この原罪と孤独は、もはや意識するまでもない当然の準拠なので、だから何?と問われるかもしれませんが、まだ当時は薄っすらと個人を保護する『名前の無い、何か』が信じられていました。
そんなあの頃には、これらの変遷が、ギシギシとその価値観と心をかなりの遅効性で蝕んでいたように思います。
これは休題的補足ですが、実は上記にも紹介しましたこの年チュンソフトよりリリースされた『街 〜運命の交差点〜』というノベルゲームが、その空気感と答えの一端へ非常に肉薄しているように感じます。
実況プレイなどもあるようなので、気になった方はお調べください。
よいゲームです。
「境界を跨ぐ」という事
「境界を跨ぐ(きょうかいをまたぐ)」という言葉を聞いて、皆さんは何を連想いたしますか?
国と国の越境?世代間格差の是正?異文化への接触?
あの時代、先進技術の到来により、人々が情報技術の境界を跨ぐことを選択してきました。史実的にも千年紀という境界を跨ぐ過渡期でもありました。また、私的個人とソーシャルパーソンの隔たりが発生しはじめ、その境界を跨ぐか否かの葛藤も生まれつつありました。
またAIを取り巻く視野からは、「知的思考体」としての固有性が、AIの登場により、その行為自体が特異性をはらんでいるわけでない議論もなされ、ヒトという「特別な種」という概念も揺らぎつつあります。
ことメタバース上では、アバター人格と、実社会人格の統合、若しくは意識的な区分の問題とも言い換えられそうです。
VRChat含む、社会的に多くを接続された電子空間は、Lainで描かれたワイヤードそのものであり、物理的可変を伴わないまでも、それに関わった人々が、その意識や、感覚を変容するに足りうる世界でした。「境界を跨ぐ」ことで、新たな視点を取り入れていくことに成功した世界だったのです。
さて、ここまで読んで下さったところで、最初に立ち戻りましょう。
仲井戸麗市(CHABO)「遠い叫び」
どうでしょうか?少し見え方が変わったでしょうか?
lainたちと同じく、明確過ぎる解答は私も出さずにおきたく思います。
ネットワークの網目が膜となり、そこに薄ら陰る何かの様に、私たちもそうありたいものです。
それではこの辺にして、今後もワイヤードで息づく、lainという存在を、私は愛でて行きたいと思います。
あの日に贈られながら、いまだ開けやしない、ギシギシとはち切れそうな箱を小脇に抱えて、また電子の海のどこかでお会いしましょう。
かいた人:Quieter(くわいえった)
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