人生で1番辛かった5月①
noteをはじめる時に、私は素直に自分の言葉で書いて伝えると決めた。でも今回の内容は、私も
私のnoteに目を通して下さる方も気分不快になるかも知れない!それでも私は伝えたい。こんな人生であっても今を生きてる事を伝えたい。
もし同じ境遇の人がいればこうやって私は乗り越えてきたこと。無理して焦らなくてもいい事を少しでも伝わると有難いです。
私は5月が好きだった。
春が大好きでそこからこの時期が大好きだった!
12年前までは。。。
息子が1歳8ヶ月の時だった。
男の子が生まれて嬉しそうな笑顔
娘が20歳になったら一緒に酒を呑むと毎回食事をする時や、お正月でも言ってたのに。
私や孫の前から居なくなってしまった。
お別れもしないまま、突然この世から消えてしまった。
無口で昔は職人だった義父。本当に静かな人。
私も余り義父の事は聞いたことがないが
小学生の時両親が亡くなって苦労した事は聞いた。
お姑から色々聞いていたが、今思うと何処まで本当かわからないが、私や孫には優しかった。
今でも覚えてる。初めて「桜子」と名前を呼んでくれた時。嬉しくて泣いた。
モラ夫から方言、イントネーションを直せ!と怒らてれる時も「自分の生まれ育った方言を恥ずかしがる事はない。イントネーションもだ。無理して直さなくていい。」と言ってくれた。
初めて孫を抱いた時の一言も覚えてる。
「いい毛並みだ」って。でもとても可愛がってくれた。
モラ夫と家族は仲が悪くて 、中学生の時から外食や話もしなかったと。モラ夫にお姉さんがいるがこの人も厄介だ。ブランド好きで、家から1度も出たことがなく、一人暮らしもない。
私がブランドも興味がなく、服装もオシャレでは無いため嫌われてた。
お姑さんも同じ。私を「何処の馬の骨かわからない女」と言われてた。
娘が生まれて実家に行った時、「子供は嫌いだから連れて来ないで」と言われた。
大変だった。子供が生まれたのをきっかけに
家族の繋がりが出来るように私なりに頑張った。
その甲斐あって少しずつ繋がりが出来た。
1番義父が辛かったのが、義母と義姉の暴言だ。
義父に向かって、早く死んで消えて、使い物にならない、迷惑な人、疲れる人など毎日言われてた厄介扱いされてた。私は嫁。助けてあげられない。
実家に行っても、「義父さん?身体大丈夫?」ぐらいしか声を掛けられない。
ケーキやお菓子を買って実家に行くも、すーっと1つ取って自分の部屋で食べる人。
糖尿病の家系で、義父も食事制限などあり
そんなストレスもあったと思う。
義母と喧嘩をしたのか、食事も作って貰えなくて
1人で何か買ってきて食べてた。
義姉、義母もよく喧嘩をしていたが、2人で出掛ける事もあって1人で寂しそうだった。錦鯉が好きで世話をしてたけど水道代が勿体ないと諦め、習字が凄く得意で高い筆など買ってたけど勿体ないと言われてやめてしまい、人と話す事も好きではなかったので部屋に閉じこもってる事が多くなった。
時々昔のお客さんに頼まれて仕事もしてたが
車も危ないと言われ免許も返納させられた頃から
義父の様子がおかしい💦
私も介護士。認知の症状がではじめた。
それに病院嫌いで、糖尿病の病院も辞めたり内服もきちんとしてない為、私が働いてる病院で私も付き添う事を話して承諾。
そこから通院もはじまった。
71歳で認知の初期症状。アルツハイマーだ。
院長は優しく糖尿病の主治医も優しく義父はこれなら通えると。
しかし厄介なのが義姉、母に認知症だと伝える事だった。
説明しても、そんな歳でなる訳ない。
ワザと演技をしてると。
認知症の人に対しての接し方を説明するも全く理解してくれない。
義姉から毎晩電話があり、愚痴を1時間話してくる。
誰にも言わないでと。
それからも2人の暴言は変わらない。
義父は私に薬の管理もして欲しいと。
それを義母は許せなかったんだろう。
前より私にきつくあたる。
仕事が終わったらそのまま実家へ
義父の様子や内服確認して又、家に戻り子供の世話をする。幸い子供は歳がかなり離れてるので娘に見てもらいながら仕事⇔実家⇔家の生活が続く。
ある日の診察で院長に言われた。
「少し鬱状態になってる。家庭での生活も本人辛いと言ってる。突然自殺する事もあるかもだから家族に話して欲しいと」
それを伝えても2人は変わらず、ワザとやってる。演技だという。頭にきて、義母を病院に連れていき
院長から直接話をしてもらった。
驚いてた。
でも2人の暴言は変わらない。今でも聞こえてくる
私もあの頃の気持ちになってくる
休み休みしか書けないが、直感で今ここで伝えたいから真実を書く。
何時ものように義父の所にいく。
もう耐えられなくて「お父さん。ごめんね。私が嫁でもあの二人にはっきりもうそんな事言わないでやめてと言いたい。でもやっぱり私は嫁だから言えない。ごめんね」と謝る。
義父は笑顔で「わかってるよ。桜子も大変になるからな」と。
帰ろうとすると義父が珍しくくしゃくしゃの笑顔で
「桜子いつも有難う。でもなお父さんもう疲れちゃった」と。「大丈夫?家に来る?」と何度も伝えていたが「大丈夫だよ」と。あの笑顔と言葉は1度も忘れた事がない。その言葉が最後になるなんて。
おかしいとは思ってた。でも何処かで大丈夫と思いもあったし、私も帰って子供の世話もあるし娘は塾もあるし息子はまだ2歳前。そのまま帰宅した。
モラ夫は夜勤で、朝から次の日の遅い時は夕方まで帰宅しない。大体呑んで酔って帰ってくる。
相談しても親身ではない。
気にしながら、その夜義母に電話し様子がおかしい事を伝える。
それから数日たったある日の夜。
義母から電話。義父が帰って来ないと。
私は何故か不安で何か落ち着かない。
モラ夫に話して実家に行くと、2人は酒を呑気に飲んでる。は?何やってる?
私は初めてキレた。「お母さん。お父さんの様子がおかしいって話したのに何でちゃんと優しく見てくれなかった?あれ程言ったじゃん」と声を荒げて初めての反抗。
義母はかなり怒った口調で「何?あんた私に反抗して私のせいだと言うの?あんたも私のせいにするの?あんた絶対許さないよ」と。
そんな事はどうでもいい。義父を探しに行かないと。2人は酒を呑んで酔っ払ってる。
とりあえず自宅に帰っできたら電話するように伝え、モラ夫と探しに行く。2人の笑い声が聞こえてた
何処にもいない。車で探してもいない。
凄く嫌な空気が私を包む。もしかしてと思うところに行き、反対側を見ると救急車とパトカーが何台も止まっている。
直感で、義父だと思った。私にはわかった。
早くその場に行きたい。義父を1番に私が助けてあげたい。
モラ夫に伝えると「そんな訳ないだろうが。あれは違うお前は馬鹿か」と。
結局その日見つからず、職場に電話をして状況を説明し義父が来たら保護して欲しいと。
警察にも電話。その日は一睡もせず玄関の前で待ってた。もしかしたら私の家に来るかも知れない。
帰って来てくれたら、「一緒に住もう」と伝えるため。
その日は結局帰って来なかった。
それから3日後の夜。義母から電話があった。
「もしもし私だけど、死んだよ。」
「え?何?誰が死んだの?」
「あんたの○○が死んだよ」と。
義父が死んだと。そこからはショックで泣き叫び覚えてない。記憶がない。
こんな中途半端で終わるのは申し訳無いけど
これ以上書くのが辛いので、次回にさせて下さい。
ここまで目を通して下さった方有難うございます。
同じ体験をされた方。何年経っても思い出すものは仕方ないと私は思ってます。
でも私は2年記憶喪失で義父の記憶はないですが
そこから這い上がり今生きてます。
そこだけは伝えたい
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?