治験日記③

今日で入院してから6日目。一度も開かれていないロールカーテンの隙間からから漏れる僅かな陽光とこの日記を外界との接点とした生活も、退院日をいれて残り3日となり、それを思えばカフェインとアルコールとリビドーが恋しい。
むしろそれ以外の豊かな生活に必要なものはあらかた揃っているため、この治験が世紀の大失敗を呈し、万一私が街中で人を喰らう化け物に変貌した場合は、皆この病院に逃げ込むのが穴場で良いと思う。

コミュニケーションを取ることもないだろうと思われた参加者たちとも、Dさんという同じ”カマ”のムジナが登場したことにより、病院内でもエロハプニングは起こり得るというドドメ色の希望を見せてくれた。
あとはボードゲームでもできれば、病院内のサービスは全て使い尽くしたといってよく、我が入院生活に一片の悔いなし!と景気良く宣言したいが肝心なことを忘れていた。
私は無職の身の上、この入院生活中に就職活動をするつもりでいたが、全く進んでいない。どうしよう。

まともな人間であればこんなくだらない日記にかける労力を転職活動に使うだろうがどうしても面倒くさく、入院中はくだらないことだけをしていたい。
思えば今この病院の階下、街を歩く人々はなんて偉いんだろう。この果てしない面倒さを乗り越えて仕事にありつき、誰かを養い、あるいは家事をし、週におよそ二日の休みを糧に毎日を戦っている。抱きしめてやりたい。
そしてそのまま万力のように締め上げ、あばらを折る事になるだろう。
なぜならその男は毎日あくせく働き幸せな家庭を築きながら、児童買春、強姦などを繰り返している性犯罪者であるためだ。
このようにして毎日働いているからといって必ずしも偉いとは限らず、筆舌に尽くし難い蛮行を働く凶悪な者もいる。私たちは自分を守るためにも想像力を動員し、物事を多角的に見ることを心がけたい。
病院を出れば嫌いな人間はゴマンといるし、一つの評価軸で人間性は測れない。
明日は我が身のこの浮世。渡る世間は鬼ばかり。そんな世間に還るのもあと3日である。

大シャワールーム

私はお風呂が大好きで、夏でも可能な限りお風呂に浸かっているし、できれば週1くらいの頻度でスーパー銭湯やそれに類するサウナ施設に赴きたいと思っている。
ことサウナに関しては根性がないため最大でも10分しか入れず、水風呂も烏の行水だが、外気浴中の倦怠感にも似た脱力感をしっかり味わえている為、無理に我慢せずとも、ととのいは手に入るようだ。

入院するに当たっては事前に大浴場があることが明記されており、その他漫画類の娯楽も完備とあったため、この充実度であれば ”湯船にもゆっくり浸かれて採血以外はのんびりできるんだろうなあ” と、ちょっと豪華なネットカフェに軟禁される心持ちでいた。
入浴を、健康で文化的な最低限度の生活と捉えれば当然のことと言えよう。
しかし入院当日オリエンテーションを担当する看護師に、「入院中は湯船にお湯は張りません。」と断言され、その期待は大きくしぼみ、漫画もどうせ美味しんぼとクッキングパパしか置いていないんでしょ…と思わせた。
漫画に関してはいい意味で期待を裏切られたが、入浴についてはさらに、一人15分までという制限が付き、大浴場は大シャワールームへと虚しく変貌を遂げたのであった。

入浴カード

受刑者でもあるまいし、まさか入浴は2日に1回とか言い出さないだろうかと心配もしたがそんなことはなく、毎日のシャワーは許可されている。
時間も管理されていて、毎朝の朝食が終わったあとに看護師がやってきて、入浴カードというものが手渡され、名前と、その日に入浴できる時間が書かれてある。
大きな浴場なので2人1組で15分ごとの回転となり、5人組で構成される今回の治験メンバーだと必ず1人あぶれてしまうため、最後は大浴場を独り占めする格好で、もちろん、最強の入浴カードは一番最後ということになる。
なかなかのレアカードらしく私はまだ1度も手にしていないが、転売でもされていない限り必ず1度は巡ってくるだろう。

そして問題はこの入浴カードである。
渡されたカードはその時間になったら必ずBOXに投入し、全員の入浴が終わる時間に看護師が回収、滞りなく風呂に入ったかを管理している。
これの一体何が問題かというと、私は言うなれば非常にうつけ者のおたんこなすで、昔から常にぼーっとして生きているため、毎日たった一回、入浴時に箱に入れるだけの小さなカードを、3日連続で失くしてしまう。
例え話ばかりで恐縮だが、例えば私が偉大な将軍家の跡取りであったとしたなら、毎日城下町に下りては三色団子をバカのように食い(バカなのだが)、代金も払わず奉公人に任せ、でっぷり太り、町人に「あの大うつけが跡取りかい…信じられないねえ…」と井戸端会議の主役にはなるが、信長のように大河の主役は務まらないだろう。
このように自己認識として私はかなりの度合いで抜けている。そしてもう治らない。

初日は入浴時に持っていくタオルや着替えまで忘れてしまい、一体何しに行ったのかと思うほど身軽で、入浴後身体を拭けずびちゃびちゃのまま服を着て何食わぬ顔で脱衣所を出た。
その数分後、看護師から風呂に入ったか聞かれ、入浴カードを失くしていることに気付く。
なぜかそのまま見つからなかったが、看護師は笑って許してくれた。

2日目、前日の雪辱を晴らすべく、スキンケアと着替え、パンツを持っていざ入浴するもタオルだけを忘れ、洗面台のペーパータオルで身体を拭きことなきを得た。
が、出た瞬間に今日もカードを投入していないことに気づき、慌ててベッド脇に用意された棚を探すも見つからない。
見つからないが1時間経っても何も言われない。仕事の基本はホウレンソウだが、たかが入浴カードだしな…とダンマリを決め込みクズの本懐を発揮したところで『あれ、お風呂入りましたか?』と声をかけられてしまった。
さっさと白状すればいいものを
「えっカード入ってなかったですか?入れたはずなんですけどねえ…」
などと白々しく述懐し何度も探した棚をガチャガチャ音だけ立てて探すも当たり前のように見つからず、結局、すみません…と謝った。
明日は失くさないでくださいね。と注意を受けたが、「さすがにこいつも明日は無くさないだろう…」と私も看護師も思っていたに違いない。

3日目。前日はかなり恥ずかしい思いをし、しっかり毎回バレるため心を入れ替え、着替え、パンツ、スキンケア、タオルと選び抜き、入浴カードに至っては宝石を扱うように慎重に服とタオルの間に挟んだ。
そのまま脱衣所まで行き、脱衣、入浴、そして15分ぴったりで身体まで拭き終わり脱衣所をでた。
完璧である。でた瞬間に着地ポーズを決めれば良かった。
あとはゆっくり夕食まで時間を潰すだけ、そう思いベッドでゴロゴロ漫画を読んでいると、大部屋とベッドを仕切るカーテンが、シャッ!と勢いよく開き、件の看護師が、信じられない…といった表情で私を見下ろしている。
「今日はお風呂入りましたか?」
もはや「カード失くしましたよね?」と同義の言葉である。
しかし私は自信があった。今回はちゃんと頭の中でも一連の行動をなぞらえ、間違いなく入浴カードを投入している。
自信がある時の私は強い。ちゃんと見たのか?と言わんばかりに
「5枚入ってませんでしたか?」
と口火を切る。開戦の法螺貝である。

2日連続で失くしておいて、お前の確認不足だろうと言われた看護師も黙っちゃ居られない。
回収BOXからあらかじめ証拠品として入浴カードを持参していて、私が眠るベッドの上へ、デュエルスタンバイの合図もなく4枚のカードを並べ出した。
「ほら、ほらあ、4枚しかないでしょ。...なんちゃって。」
この女…!と歯軋りをしたが、なるほど確かに私のカードはそこにはない。
最後になんちゃってと付け加え、おどける姿勢まで見せられたのが屈辱的だ。
最強カードですでに瀕死の状態だが、看護師はこれでターンエンド。私のターンだ。
しかし有効なカードを持っていない私は、もう特殊召喚を試みるしかない。
実際に私の入浴カードを回収BOXから探すなりして、この女に突きつければいい。
この数分間、私の入浴カードのレートは一時的に跳ね上がり、ブラックマジシャンガールくらいにはなっていたのではないかと思う。
私はそのまま風呂場まで進み、回収BOXを隈なく探す。そして探している間に雷に打たれる。
カードを脱衣所に持ち込んだところまでは間違いないのだが、BOXに入れた覚えがない。つい先程まではBOXに投入したところまで記憶していたつもりでいたが、間抜けな私が強気でいるために見せた幻だったのだろう。
あれだけ居丈高に対応していたにも関わらず、カードがなくては話にならない。
脱衣所で落としたかも知れないと探すが、下にも上にも見当たらない。
脂汗をかきながら必死にカードを探す私を見て、看護師の女は
「脱衣所はもう探しました。」
と冷たく言い放った。
看護師は、全ての退路を断った上で私に闘いを挑んでいたのだ。
負けた。ターンエンドだ。

かくして3日連続で入浴カードを失くす失態を晒し続けたが、3日のカードについては結局脱衣所から出てきたようで、「ありましたよー」と笑って報告を受けた。
人間としてもデュエリストとしても、彼女の方が何枚も上手だったのは言うまでもないだろう。

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