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平和を問う

 われわれは、どうも、いつでもどこでも、ひとりであろうが複数であろうが、絶えず、人間関係で悩み苦しみ、相克している。口げんかぐらいならまた始まったくらいのものだろうが、これが民族間や国家間の激しい対立ともなると、核兵器使用までも辞さない狂気の沙汰に変わる。
 つい、今し方にパンデミックを起こした新型コロナウィルス感染症は、何十万何百万のもの犠牲者が出てしまう悲惨極まりないもので、人類史上かつて味わったこともないような世界規模の感染症をまのあたりにして、追い込まれているときは、さすがに、われわれは、宗教やイデオロギーなどの戦争で争ってはいられなかった。だが、皮肉なことに、その猛威がおさまると、こんどは、宗教やイデオロギーのもとに愚劣極まりない暴力を起し、戦争という暴力の応酬に歯止めがかけられずにいる。

 人類に、生きるか死ぬかの命題がある限り、死滅に対する恐怖を武器にする戦争に歯止めはかけられないとでもいうのだろうか。 

 さて、話は変わるが、今回は、令和4年の正月に通報があった不可思議な現象をみて思い出した「平和を問う」不思議な話について記して起きたい。
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 平和を問う。

 この正月は例年にない大雪が続き、全てがすっかり雪に埋もれていた。そのような中、わざわざ訪ねてきて「自分のお墓に不思議な氷の像が出現している。」というのである。
 令和4年1月22日早朝のことであった。 
 早速、その墓を確認したが、この写真のように確かにはっきりと出現していた。ほかのところはどうかと見回ったが、氷の像が顕れていたのは此処だけであった。

 実は、ここの寺では平成20年から、氷による不思議な「聖像」が境内の小さな石鉢の中にたびたび出現していた。   
 自然現象なのだが、このようなことは長い人生の中で初めてであった。
 自然現象というには全く考えられない程不思議な造形美であった。

 平成20年以来、出現するのは毎年ではないのだが、決まって1月から3月にかけて、ふいに出てくる。いつ出るのかは予測がつかないので、毎朝観察する羽目になった。
 驚くことは、ある時はまるで法衣を身につけた菩薩像であったり、またあるときはインドのアルナチャラの山とそっくりな山の姿であったり、またあるときはも幾何学状の三角四面体そのものであったり、大天使の翼のような細かな模様であったり、またあるときは、まさに飛び立たんとするコンドルのようなものであったり、龍蛇体であったり、実に不思議なものばかりがでてくる。

 ただ、これが顕れると、決まって、大異変が起こる。極めつけは東日本大震災直前、平成23年3月8日早朝の氷像であった。しかし、氷像は単なる偶然の自然現象に過ぎないと、安閑と過ごしていたのだが、その数日後、3月11日、激震が走ったのである。
 あれ以来、だんだん、こうした現象が続くと、これらの現象は神々からの警鐘ではないかと思わざるを得なくなっていた。
 しかし、これを解釈したところで、わかりようもない。携帯写真で記録はしているが、実物は、その日のうちに消えてなくなってしまうものなので、他人に説明しても、画像を見て、「へえー」というだけだけでおわる。


 さて、この冬は大雪で、氷の聖像がときどき出現するこの寺の「ツクバイ」もすっかり大雪に埋もれていた。それで、雪が溶けるまでこうした現象は見られないだろうと、たかをくくって、毎日雪に埋もれたツクバイを見ることもなく過ごしていた。
 そこへ、突然、この日、「お墓に氷の聖像が現われている」と通報者がやってきて、まさか!と驚かざるを得なかった。こんな大雪の日に?なにしろ、お墓もどこもかしこも大雪に埋もれているのだから、氷像が出ようもないと思っていたのである。
 しかし、知らせてくれたこの方は、雨の日も、風の日も、大雪の日も欠かさずに毎日墓参をしている方だった。お墓の雪をそのつど掃き清めていたのだという。
 とにかく、その墓を見に行くと、確かに氷の聖像が出現していたのである。 

 ただ、この氷の聖像(令和4年1月22日早朝に出現)を見て、内心、非常に危惧するものがあった。

 それはこの聖像が「鳩」ような姿をしていたからである。水面の氷上に映るその影は、まさしく、鳩そのもので、しかも、見えざる世界(まさしく墓場の陰)から何かを語りかけているような気がしてならなかった。
 鳩は「平和」の象徴である。ということは、氷像現象が何事か警鐘をならすものだとしたら、いったいこれは何を指し示そうとしているのか。ただの自然現象に過ぎないとは思ってはいるが、それでも気になる。(もしかすると、この「氷の鳩」は、世界の「平和」がいちじるしく脅かされる事態が起きることを暗示しているだろうか。これは、人類が、愚かにも再び戦争引き起こしかねない状況にあることに警鐘を鳴らしているのだろうか?。まさか、最も畏れている核戦争が勃発するとでもいうのだろうか?
 
 たかが、氷の氷像を見たからといって、普通は、誰も、そのような連想をおこすことはない。

 だが、小生にはそう思わざるをえない背景があった。それは、頻繁に続く氷像現象と昭和51年に小生が直接見聞した或る恩師の最後のことばがあり、その問題が現実化するのでは?という危惧があったからである。

 そして、確かに、この日の氷像現象の数日後、いきなり、ロシアのウクライナ侵攻がはじまり、世界中に激震が走った。しかも、国連がこのならずものの侵攻に対し全く機能できないでいる。誰も止められないのだ。更に、イスラエルとパレスチナの深刻な問題は、まるで、イザヤ書の一説を再現するかのように、せん滅作戦が展開し、破壊と殺戮を繰り返し、悲惨極まりない状況をもたらしている。これによって中近東はますます不穏な状況にあるのが現実問題となっている。こともあろうに、戦争を仕掛けているものが、顔に薄笑いを浮かべながら、核攻撃を平気で口にしている・・・ このような状況は、かつて、この恩師が「人類がこのまま行けばやがてこうなるであろう。」と言及していたことがそのまま起きているので、まさか、今、ここでくるとは・・・・・人類は少しも進歩していない。いや、逆に、退化してしまったのか・・・)と、心中穏やかならざるモノがあったのである。

 ここでいう恩師とは小生が、昭和45年4月8日に、たまたま、わが師僧に連れられて初めて会った人物であった。彼は、とうていの小生の思議の及ばぬ非常に不思議な能力の持ち主で驚いてしまった。しかし、あまりの不可思議さにかえって疑義をいだき、理解するには、だいぶ時間を要した。その後、しばらく経って、小生の勉学の一区切りがついたところで、昭和51年、この不思議な恩師の側に行って、本格的に道を探求しようと志し、訪ねてみたところ、直接、恩師本人によって、側で探求することを許され、そこで、この恩師の驚異的で不可思議なる実動のありのままの姿をまのあたりにしたのである。
 小生にはかけがえのない邂逅であった。だが、如何せん、この時、師は重い病身をおしての壮絶極まりない活動を展開していた時であった。小生には、それがかえって痛々しくもあったが、彼の覇気は宇宙規模で、小生のような凡庸なものには、まさに光り輝くものそのもののであったのである。
 そのような5月末の或る日。ふと、やってきた恩師は、ひとりで仕事をしていた小生のとなりに坐り、まるで時間がないかのように一気に語りはじめたことがあった。それは、突然の事で、しかも、例によって、とうてい小生の思議の及ばぬ壮大な世界の話を聞かされたのである。だが、その内容は絶望に近い、鬼気迫る切迫した内容であった。
 この恩師からこの話を聞いた後、小生は、「人類の危機と意識の変容」という主題をつけて、深く心にしまい込み、誰にも明かさないでいた。
 しかし、いま、このときに、遅きに失してしまったが、この内容を明かさなければならないと痛感している。
 その話の内容は概ね次のようなものである。テープレコーダーに録音していたわけでもないので、小生の記憶と言葉が入り込んでいるものでもあるが、主旨は全く変えてはいないと確信している。
 なお、この恩師には多くの関係者もあり、名は伏せておくことをご容赦願いたい。要は内容が大事であると思うので・・・・。

(昭和51年5月の或る日のこと)
「人類の危機と意識の変容について」

 「地球は人類の物質界に偏った意識と行為の乱れによって、今後、地球上に大きな天変地異を引き起こしかねないことになる。

 最大の問題はこれまでもそうだったように、まちがった宗教やイデオロギー、民族思想などによる、権力的搾取や欺瞞性にある。

 しかし、地球自身にも意識があるのであり、その中の一部でしかない人類の意識の変調は、地球自身を苦しめることになり、人類はその反動を食らうことになる。そうでなくとも、人類は、自己中心的覇権争いを重ね、欺瞞と搾取を繰り返し続けている。しかも、搾取される側の悲劇はますます増大し、これがきっかけで、おろかにも「核戦争」のボタンが押されかねない状態にある。このボタンが押されてしまえば、地球環境は、取り返しはきかない状況に陥ることは間違いない。これまでの戦争とはレベルが異なる。これを、なんとしても止めねばならない。
 だが、人間社会は、泥沼化し、愚かにもますます危険な状況に走っている。 

 ただ、このような欺瞞に操られている為政者や宗教を語る人間ほど知らないのであるが、われわれは、決して、忘れていてはならないことがある。

 この宇宙はわれわれの魂の修行場である。
 そして、魂の修行の場である地球のこの危機的状況を回避すべく、核爆弾のボタンが押されることのないよう、見えざる世界の如来や菩薩や大天使たちが必死に対策を講ずるべく、奮闘しているのだ。彼らは、みな、地上の人間よりもみな必死である。

(ここからしばらく、師の口から、如来や大天使や権天使などの重要な活動の内容と不調和で不穏な地球の状況など、天上と地獄の構図などかなり具体的に語られたが、如何せん、小生が愚鈍すぎて正確に伝えることは困難であるので省略する。ただし、小生が平成22年12月に東京のある書店でたまたま手にした『エノクの鍵』(翻訳本)という書籍の序文に書かれていることが、昭和51年5月に恩師から直接聞いた世界とその構造が酷似していることに気づき、思わず仰天してしまった。あらためて、このとき、見えざる世界が単にひとりの人間の荒唐無稽な妄想と断ずることができないことを知ったのだが、キリスト教の世界などについては小生は門外漢であるので、その詳細については、ここでは省かざるを得ない。)

 何よりも重要なことは、人類の意識の乱れが、異常気象や大地震、飢饉や疫病、はたまた様々な戦争が起こしているということを自覚せねばならない。人類の誤った意識や行動が、このかけがえのない奇跡に近い地球という場を破壊してしまうのだ。それはこの地上に縁のあるあらゆる魂が、地球上におけるかけがえのない場を失うことにほかならない。これが最大の罪である。
 いいかね、キミは、自分によく問うてみたまえ。
 これまで、人類はいったい何をなしてきたというのであろうか?と。
 釈迦やイエスの本当の教えは、本当にいかされているといえるのであろうか?と。
 人類は、イデオロギーや宗教の権威をかさに着て、自己の正義を標榜することに汲々となり、本来の普遍的な真実を見失っていることに気づかない。その原因は、大義や正義、真理の名の下に、自己保存と自我我欲に走っていることにある。こうしたエゴイズムは、物質界にあるものの恐怖をベースに、神や大義や正義のためと称して、平気で殺戮を繰り返し、詭弁を弄して、搾取し、卑劣でおぞましい極悪非道の戦争を正当化するばかりである。
 キミは、この話を聞いて、神や天使がいると言うのにのなぜそうなるのかと怪訝に思うだろうが、いかに、如来や大天使がいくら潜象の世界から、この現象界に警鐘を鳴らそうとも、その問題を解決するのは「この世の人類自身」に委ねられているからなのである。この現象界の責任者は、いま、ここに生きているわれわれ自身である、ひとえに、われわれ人類が、その欺瞞性に気づき、どう行動を変革できるかに全てがかかっているのだ。
 この世界のことは、この世にあるものたちに全てが託されていると厳然たる法理があるのだということを知らなくてはならない。
 それゆえ、もし、この世界で、狂気に走るものがあれば、これまでもそうだったように、たちまち世界は戦争に陥る。地獄を選ぶか極楽を選ぶかは、いま、ここに生きるわれわれ自身にかかっているといえる。

 人類は、神や正義の名の下に救済を祈りながら搾取し戦争を仕掛けるものの欺瞞の正体を見破る叡智を、ひとりびとりがもたなければならないということだ。

 そして、人類ひとりびとりが地獄の沙汰となるような狂気性に気づき、それを止めるべき自己変革を起こさなければならない。そうすることで、地球を本来の魂の修行の場に蘇らせねばならないのだ。
 いまこそ、人類は意識の変革を起こさねばならないときなのだ。
 気づいたときに、すでに、地球が自ら破壊する道を選んでしまわないうちにである。

 この話を聞いたのは、その時たまたま側にいた小生だけである。似たような話を聞いたものは他にも入るであろうが、このときは恩師と小生のみでのことであった。

 ただ、小生は全く凡庸なるものである。まことに不遜ではあるが、この不可思議な話から、まず、思っっていたことは、(悪魔の世界も、神の世界も、似たような構造をしている。対極的にどちらも、ピラミッド状のヒエラルキーであり、権威と力をもとにしているに過ぎない。このことが、悪魔と天使の軍団の抗争につながり、そもそもの天上と地上に戦争が絶えない理由であろう。そういったヒエラルキーを嵩に、自己の存在の有無に恐怖を感じることこそが権威による欺瞞の構造に陥っている最大の所以であろう。天上界も地上界もこれに気づかない限り、善と悪の戦いは終わることはないのだなあ。)ということであった。

この人類のあらゆる欺瞞の構造を喝破する叡智は、人間ひとりびとりが、おのが人生をかけて、自己を含め世界のあるがままを観察することから始まり、自己を見つめること以外に、叡智を開くことはないのかもしれない。それはもっとも困難なことなのであるのだろ。)と思っていた。

 この師は、この話をされて、ほどなく他界された。

 あれから48年、人類は彼が案じたように、愚劣な戦争を止めることもできないばかりか、自分の享楽にうつつを抜かし、いや、我が身が危ういのか、日々欺瞞と搾取の苦悩の渦の中であくせくしているばかりである。当の自分も、したり顔して、わかったふうなことを書いているが、この自分が最も浅ましいものと恥じざるをえないのも事実だ。

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