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「るつぼ」と「中途半端」

 「人種の坩堝(るつぼ)」と評されたアメリカ。調べて初めて知ったのは戯曲の名前だということ。

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Illust from 不明 - University of Iowa Libraries Special Collections Department [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1176131による

 そもそも「坩堝」を実際に見たことがある人は多くないと思う。元々は金属などを高温で溶融して混ぜ合わせる為の深皿のようなもの。画像検索をすると案外シンプルな形でビックリするかもしれません。

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 最近では「人種のサラダボウル」の方が使われるらしい。混じっても決して溶け合わず、みな並立共存しているから、という理由らしい。

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 ベトナム人の父、日本人の母。僕はいわゆるハーフ。両親の教育もあって、日本語が多少強いものの、ベトナム語もできるバイリンガルとなった。なんなら考え方とか感覚も両方ある。これがなかなかの曲者。よくある話だが周囲とのバランスを取るのにとても苦労した。

 Ethnologueの調査によれば日本語の話者人口は世界13位。ベトナム語は20位にも届かない。マイナーな組み合わせだ。実際社会に出て、「ベトナム語ができる」、だけで評価されるものでもなかった。

 両方の文化や考え方が分かる、と聞くと素晴らしい事のように聞こえるが、マイナスに働く事も多い。言葉の裏に潜む様々なすれ違いに気づいても、何もできない。ただ翻訳、通訳をするのに、自分の気持や考えを抑える事でどんどん疲れていく。

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Photo by Edurne Chopeitia on Unsplash

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 Twitterですごく共感する記事を見つけました。

 「かけはしになりたい」というフレーズがすでに国際交流の場においては「定番」どころか「陳腐化」していて、その志の高そうな字面とは裏腹に、自分の頭できちんと考えていないことが透けて見えるからではないかと思います。(記事本文からの引用)

 「かけはし」となっている先輩方は沢山いる。そして多くの人がそのかけはしを通じて交流をしてきた。「かけはしが陳腐化」しているのは既に橋は沢山かかっていて、飽和状態であることを意味してるんじゃないかと思う。

 違う文化や言語が交わり、それが続けば徐々に溶ける部分があって境界線が曖昧になる。僕みたいなどっちつかずの「中途半端」な人だって生まれてくる。かけはしから生まれた僕がかけはしになる?なんかおかしい話だ。

 僕は「るつぼ」になろうと思っている。色んな所にある「かけはし」から入ることができる、日本とベトナムを溶融する坩堝。そのために色々試行錯誤しながらもがいてます。

Cover photo by Frenjamin Benklin on Unsplash

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