自己表現について考えてみた。

 自己表現について考えてみた。


 (前置き)何か小説を書こうと試みてもだめで、絵を描こうとしてもうまくいかないのもあって、エッセイ的な個人的記述を残そうと思った。

 そんな出来もしない小説や絵画なりには程度はあれど、自己表現がつきものだ。表現のない無機質な表現もまた表現だと思うし。
 自分にとっての表現とは何か(自己表現)について書いていき、言語化してみて見えるものがあればという願望も込めて、考えてみたいと思った。
 自分が何かを表現しているかと問われたら「(一生懸命に)している」とは言い難いが、考えるのは自由だ。

 さて、前述の通り僕は主に絵を描いたり、小説を書いたりしている(したいと思っている)本気で寝食を忘れてやっている人にとっては馬鹿にされそうな程度なんだけど、ほんのちょっとはしている。
 今、この文を読んでいる人がいるなら僕の絵を知っていたり、文章を読んだことがある人がほとんどだと思う。雑把にはなぜこんな事をしているのか、なぜこんなことをしたいのかってことなんだけど、結局のところよくわからない。そう、結局わからないことなんだけど、そのわからない感じを如何にうまく伝えるかってことなんだと思う。うまく伝えるというのはやっている内に、段々とうまく伝わるようになる。というのは明らかなんだけど、僕はすぐ諦めてしまって、どうしようもないのが実際のところ。それは掻い摘むと、表現がなくなってしまった。ということにもなるんじゃないか、と思っている。表現をしたくない。というのは余り思ったことはないが、どこか生活の中で簡単に搔き消えてしまっているんだろうと思う。表現がなくなってしまった、というより表現したくなくなってくるというのが近いのかな。その状態で安定したのならそれもそれでいいのかなと思うし、自分自身としては難しい問題だ。

 はじめに、自分のしたい表現について考えたい。何年か前に僕の書いた小説を読んだ友人にペーソスとユーモアが交ざっていると言われた。ああ、そうかもと納得させられて、自分は物悲しさの中でユーモアを表現したいんだと気づいた。なんだ、人まかせじゃん、と言われそうだけどね。それにしても今の時代、単なる憶測だけど僕だけじゃなくてこういう人はけっこういると思う。なんだか漠然と悲しいけどユーモアでどうにかできないか、ってところなんですよね。毎日毎日漠然とした嫌さの中で何か可笑しみを見つけたいんだろうか。うまく表現できない表現をしたいというのもあるのかもしれない。これを書いている今だって、何かもっと字数を増やしたい、長く書きたいと思っている。これも表現なのかな。なんだか話が逸れそうなので、自分の絵についての表現について書こうと思う。

 なんてことはないただの絵で表現できるのはいいなと思うから好きに描いている。でも、その好きってなんだろうということになってくる。好きにも限度があって段々と好きがなくなってくるから何を描くかというか、表現を探さないと、とは思う。これは仕方がない。この文を書いているたった今閃いたことだが、パッと見た感じ駄作でどうしようもないけど愛らしいもの。なんか腹立つんだけど気になる絵。例えばだけどこんなところをうまく突いていきたい。自分自身もそうでありたいという欲求なのかもしれない。と、まあこんな風な表現が浮かんできた。具体的に何も絵は浮かばないけど、描けないよりはましだ。ノートや紙にデッサンや落書きするものとはまた違うような気もするしまあいいか。人物画、特に顔は好きでよく描くがその人の背景まで描けたらというのはある。設定なんかはないけど、不倫して家族崩壊してそう、など。様々な感じ方があればいいなと。色については自由に使いたい。最近は暗い絵ばかり書いてるが明るい色で暗い雰囲気を出してみたい気もする。まずはイメージからだ。

 文章については今記述している『自己表現について考えてみた』みたいなことをちょくちょく書いていると何かしら見えてこないかと思っている。『エッセイ赤ちゃんになりたい』のような自分自身と更に深く向き合うのもいいかもしれない。嫌われる覚悟、というどこかで聞いたことのある言葉ではあるけど、僕はけっこう好きだ。さらけ出すのは好きで一時期暴露本が流行っていた時期に自分を暴露するものを書いていたことがあった。不発に終わったんだけど。しまった、内容のことじゃなくて表現のことだった。文章に至っては書きながら自分なりにどう面白くなるかだけ考えて書いているんだけど、それもどうなのか。やはり面白い表現をしたいという前提に書こうとするから書けないというのは多分にあるはず。この文章だって、面白いとは違う、ただの記述。こういう書き方?だっていい。表現してもしなくてもいい。あと、たまに自分の文章をペーソスという視点で見ると、確かにペーソスばかりだなあと思う。何をそんなに悲しがってるんだ、とちょっと可哀想になってくる。おそらく環境と時代が僕をそうさせているんだ!って声を大にしてみたところでもっといい環境で。もっといい時代で。と嘆いていても仕方ない。この環境、時代でこそ生まれるなにかを表現できるというのは誰にでもあるはず。例えば僕は極力楽をしたいがそうは言ってもできないところの何かや、整理整頓された新築マンションで優雅におしゃれに生活したいと思ってもできない何か。今を大事に生きて今できる表現が一番なんだ。ちょっとスピリチュアルな路線になってしまったが、書くことなんて特になんだっていいんじゃないか。身も蓋もないけれど、何をどう書いても自分の表現だよね。って、これはたしか大好きな作家、町田康がなんかで言っていた気がする。
 なので文章、主に小説なんかは自分だけの表現をするってのはちょっと違うのかなー、と若輩者の僕は思うわけで表現からの離脱の表現、とか言い出すとややこしいが。ちょっと本題とずれるが、どうしても表現をしていると評価の部分に左右されてしまう。自己評価もしてしまうし。自己評価で項垂れているなら納得もいくが、他人の評価で落ち込んでも仕方ない。無論、僕の場合は低評価されていく表現なんてのも気になる。負け惜しみともとれるが、rizinファイターの平本蓮にしてみても、試合に負けても俺は負けてないって言い切る強さってのは嫌いじゃない。いや、負けてるやん、と突っ込まれそうだけど、自分が負けてないと思えば負けてないよね。

 と、まあ(表現が)何か見えてきたかと言えば特に見えないけれど、普段薄っすらと思ってきたことをちょっと書いてみた。単純に漠然と絵を描くのも好きだし、何も表現できず評価に値しないものだっていいとは思わないけれど、それしかできないなら仕方ない。

 つまるところ表現とは生きること。 
 とか言うてますけども。

百円ください。お願いします。