『ゴム旅行』⑧近藤ゆめの夢

⑧近藤ゆめの夢

    近藤ゆめが女学生だった頃、一学年上の歳上の男と交際していた。満開の桜の樹の下で告白され、真剣交際をしていたが夏の終わりには交際に終止符を打たれた。突然、もう会えないと下校時に言われたゆめは納得がいかなかったので、帰宅してから自転車で男の家まで全速力で漕いで向かった。偶然にも男の家の前に着くと、男は家の門から出てきており、ゆめの顔を真っ直ぐに見つめた。男は何故か衣服を着用しておらなかった。
(裸じゃん)と失恋した辛い気持ちの中で眉唾物の光景をゆめは見た。あんなに真面目だったのに、(裸じゃん)もう一度想った。よく見ると、裸ではなく、陰茎にゴムを装着していて、直立不動で勇敢な表情を浮かべているようにゆめの眼には映った。
 「好きだったよ」男はゆめに最初で最後の好き。と言う言葉を発した。ゆめは男に抱きつこうと自転車を倒して、駆け寄った。しかし男はゆめを手で払いのけ、歌い出した。(あんなに真面目だったのに、ゴムをつけた裸同然の姿で歌、歌うん?)と地べたに転がり、俯せの態勢でゆめは彼を見上げたのだった。西陽が眩しくて、はっきりと男の顔は見つめられなかった。
 歌った曲が何という曲なのかは後にいくら調べても判明できなかったので、自作のオリジナル曲という事に決め、あやふやなフレーズだけ半生に亘り、残り続けるのであった。
  歌い終わると、男は地面を蹴り、走り出した。ゆめはたとえ車に轢かれようとも構わないほどの覚悟で信号を無視して追いかけた。   
  男はゴムを装着しただけの姿で公道を叫びながら走った。
  「コンドームの中に!コンドームの中に!おれは行くんだ!」ゆめは無心に追いかけながらも、この叫びを聞いた時だけは(あんなに真面目だったのに、どうして)と冷静に考えて走ると、彼は何かに取り憑かれている。と確信めいたのだった。
  Y字路を曲がると男は忽然と居なくなっていて、装着していたコンドームだけが落ちており、物悲しく夕日に照らされていた。ゆめはそれを拾い、強く握った。中に入っていた少量のカウパー支腺液が手の平に垂れてきてゆめは液を匂った。「臭いけれど、あの人の匂いのような気がする」ゆめはそのコンドームを捨てずに現在もアルバムに挟んで大事に保管している。
  それから男の両親が捜索願を出した。ゆめは警察に重要参考人として三日間尋問を受ける事となり、事実を話しても相手にされず、馬鹿にされた。町内でも笑い者にされ、吊るし上げられたような気概で青春を過ごした。 
  当時、学生運動が盛んだったが、ゆめは一人コンドームの中に消えた彼の事を想っているだけで日が落ちて他の事は何も考えられなかった。新しく恋も出来なかった。ゆめはコンドームに話しかけるような変な大人になった。みんなに疎ましく思われながらも、それで良かった。あの人がいた頃の淡い情事を思い出して自慰をするだけで、何かが満たされた。そんな日課の自慰に耽っていた三十歳の春の日、スーパーオーガニズムに達したとき、何かが覚醒してゆめの裡にだけ男がフルビジョンに現れて、お久しぶりと言った。ゆめは暫く何も言えなかった。あの日のままの彼だった。
   僕はあの日、ほんとうは死のうと思った。君にだけ話すけど、僕にはコンドームという僕自身の身を守る避妊具が必要だった。僕は生まれてきた事を後悔しつつ、毎日毎日コンドームに呪いをかけては恨んでいた。コンドームが産まれてくる生命を遮断するなんてことが僕には考えられない。逆だろ、コンドームは生ものなんだ。僕は学生生活で一日たりとてコンドームを装着しなかった日はなかったね。コンドームは愛そのもの。君との初デートの日もファーストキスの日もコンドームを装着していた。ある種僕の恋人はコンドームだったかもしれない。コンドーム愛好家の僕はそっちの世界では生きられなかった。ごめんな。コンドームの中で生きようと決めて僕はそっちの世界を捨てた。死ぬかコンドームか、だった。僕はコンドームの方に行ったんだ。弱い人間だ。本当のことだけ言うけれど、微妙くもコンドームとは僕だった。そっちの世界にあるコンドームは概ね、僕だと思う。
   「訳が分からない」とゆめは思った事を素直に口にした。段々と男の顔が不明瞭なビジョンへと歪んで見えてきた。男の口だけはっきりと見えるのでゆめは男の口を凝視して話の続きを聴いた。特に聴きたいという願望は無かったが男は勝手に話を続けるので自然に耳に入ってきた。
   僕は君と交際している時、二股をかけていたんだ。君が浮気相手だった。いつ話そうかと悩んでいたけれど、君が三十歳になった頃合いに話そうと決めたんだ。君も僕のことなんて忘れて新しい恋をして結婚して子供の一人や二人いるだろうと思ってね。
 ゆめは、「で?、何が言いたいの?あなたは」と、男の口に向かって言うと歪んでいた男の顔が鮮明に見えて少し大きくなったような錯覚に囚われた。
    そっちの世界に僕の子供が居るんだ。大事な時にコンドームを嵌め忘れちゃってね、ははは。 できちゃった婚で、すぐ結婚したんだけど、育児も家庭も棄てて僕は逃げた。コンドームの中に逃げ込んだ、本当に最低な人間だ。君は突然こんな事を言われても訳が分からないだろうけど、君にお願いがある。確か僕の息子はゆういちという名前だったように思う。何もかも棄てた僕だったけど、どういう訳か僕も本当のコンドームになれないでいるみたいだ。人の子だからか歳を重ねるにつれて、僕は僕の子供に会いたいと思うようになってきてね。今すぐとは言わない。そうさな、ゆういちが三十歳になった頃が一番ベストかな。その時君がコンドームの中に連れてきてくれないか?君も招待するし、それに君にも会いたいね。その時君は幾つなのか僕には分からないけれど、君も僕もお互いにいい歳だね。
   ゆめは一言だけ「覚えてたらね」と言った。男は、息子の所在なんかは追って連絡するよ。と、そう言い終わると、ゆめの前から男は消えた。覚えてたらね。などと軽はずみに応えたゆめであったが、ゆめは男の息子と永遠の初恋相手である男に逢いに、コンドームの中に行くことが唯一の夢となって余生を過ごした。
   
 僕ら三人はミニストップのイートインスペースに移動して、それぞれの休息をとっていた。僕はどういう訳か眠気が余りなく椅子に座って頬杖を突いてよっちゃんいかをつまみ食べながらセルフで買ったホットコーヒーをちびちび飲んでいる。僕はこの二種を選んだ。手持ちが百五十円程しかなかったのでこれで手持ちの金がなくなった。彼女は近藤未来におにぎりを買ってあげていた。近藤未来はよっぽど嬉しかったのか、何故か手をつけずに、おにぎりを抱きしめるように寝ている。彼女は何も買わなかった。ただ死んだように爆睡している。
 肩を叩かれた。
流石に僕以外の二人が居眠りをしているのを店員の一人が注意しにきたのか。と思ったら、その初老の店員は僕の顔をじっと見つめ、「もしかして、ゆういちくん?ゆういちくんじゃないかね?」
顔はもちろん、胸に付けた松浦という名札に書かれた名前にも心当たりはなく、はいそうですが。とだけ店員に答えた。「い、いきなりごめんなさい!こ、興奮しちゃってね、あなたの父親はわたくしどもの間で大スターなんだよ。少し、お時間もらえるかな?あ、あ、みたところ君たち、お金なさそうだし、千円渡すのでね」
「そうはさせないよ!」店内に声が響いて出入り口の自動ドアの方を見ると、近藤ゆめが仁王立ちで僕の方を睨み付けるように見ていた。

百円ください。お願いします。