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青空文庫を読み上げアプリで聴く

私はスマホを持つのは遅かった。ドコモが近いうちにガラケーを扱うのをやめるとアナウンスした時は「ならドコモなんてやめてやる」と思った。PCをあんなに小さくしてまで持ち運びたいものか?と思った。世の中からワープロがなくなりPCしかなくなった時も「何なんだこの風潮は」と思って嘆いた。一旦PCを使い始めて気がついたらワープロのことなんて忘れてしまった。スマホも同様で、しばらくしたら肌身離さず持ち歩くようになった。こないだなんかついにアプリをオフラインで使うために白ロムをもう1台買ってしまった。

私はIT機器は全然詳しくないので、ひょっとしたらとんでもない時代遅れのソフトやアプリを使いながら喜んでいるなんてこともあるかもしれないが、それでもスマホのアプリによってここ数年で生活の質が格段に向上した。

世はチャットGPTとか生成AIとか言うけれど、私はそれほど恩恵を感じない。英文の和訳なんかは本当にすばらしい出来ですごいと思うが、頭にくることも多い。嘘を答えられるのはなぜか御愛嬌だと思って意外と許せるが、特にマイクロソフトの生成AIは答えられないと論点をずらしにかかって憎らしい。「それじゃなくてこれです」って論点を狭めてもしらばっくれて別の問いにすり替えてしまうので「役立たず。チャットGPTに聞きます」って何度言ったか分からない。チャットGPTも答えられなかったりするがこちらのほうはどこか愛嬌というか誠意みたいなものがあって「ま、いいか」という気になったりする。

しかし生成AIは基本、検索が多少便利になったぐらいのことであって、しかも「本当に合ってるかな」と心配になってくるのでそれなら出典がわかってるぶんだけ従来の検索のほうがましな気がしたりする。

私が本当に恩恵を感じるのは「読み上げアプリ」だ。これを使うことで、これを「読書」と言っていいのか分からないが、ネット上にある活字コンテンツを取り込む量が格段に増えた。自分の中ではインターネットに接続して以来最大の恩恵だと感じている。

私は昔は読書量はかなり多かった。新書とか時事問題の本はある分野のもの、ある著者のものを読み慣れるとマンガのようにスラスラ読めるようになることもあって1週間に1冊みたいなペースで読むという時期があった。読んだ本を机の隅にどんどん積み上げていくとそのうちすごく高くなり、なんだか達成感みたいなものがあり喜んでいた。しかしそういう単細胞な喜びの時期が過ぎると、逆に1冊読むのに数カ月必要みたいな本のがよくなって読書量は年に数冊となった。それがそのうち実生活が忙しくなるうちに本自体を読まなくなった。部屋の本棚には大量の本が並んでいるがアップデートがないので「こんなのもう読まないな」と思う本ばかりになって、今度暇ができたら大量に捨ててやる、と思っている。

しかし数年前、読み上げソフトというものの存在を偶然知った。それでいろんな文字コンテンツをかけて雑用をしながら、あるいは寝転びながら聴くようになった。それで、紙媒体の本は読まなくなったがデジタル上の文字は読み上げソフトを通じて取り入れるようになった。最初はネットニュースなどを聴いていたが、そのうち青空文庫で見つけた小説などを読み上げアプリで読み上げることを覚えた。旧かなづかいとかふりがなを変なふうに読んだり、各種読み間違いは多いが、それを当たり前だと受け入れればとても楽しめる。仕事の関係で車の中で過ごすことが多いが、その間じゅうスマホの読み上げソフトで昔の小説とか読み上げて聴いている。一人きりの空間で数十ページの短編小説を1時間か2時間ぐらいかけて聴いてると情緒で心がしっとりしてくる。読み上げアプリで生活の質が劇的に向上したという人は多い。まだ知らない人がいたらぜひ試してほしいと思う。

1年半ほど前スマホを買い替えた時、古いスマホを読み上げアプリ専用に使っていた。新しいスマホの充電池の消耗を防ぐため。車の中にいる時はずーっと読み上げアプリ起動しっぱなしなので。そんな使い方をしたら古いスマホの充電池の本当の寿命が来た。100%にしても次の瞬間には40%になってるみたいな。それでも充電しながら使っていたが、何かの拍子にコードが抜けると読み上げている最中にシャットダウンしてしまう。しまいには100%の状態で何もしてなくても充電をやめた次の瞬間に落ちるようになり、つまり本当に使えなくなってしまったので読み上げアプリを使う用に白ロムを一つ新しく調達したのだ。家でwi-fi環境にいる時に青空文庫から読み上げアプリに何十種類も保存しておいて、車の中で「今日は何を読もうかな」と思って選ぶことも楽しい。

読み上げアプリで青空文庫を読むようになったこの2年ぐらいの間に、今まで読んだことのなかった昔の小説家たちの作品に触れることが多くなった。中には北条民雄、久坂葉子みたいな名前すら知らなかった作家もいるし、坂口安吾、山本周五郎、徳田秋声みたいな名前は知ってたが作品は一つも読んだことなかったという作家の作品、織田作之助、国木田独歩、谷崎潤一郎みたいな何作か読んだことあるけどその全貌は知らなかったという作家のものとか、色々読んで、本当に楽しんでいる。

昔の作家の作品は、文章がうまいけれど、内容自体はそんなに奇抜なものではないものも多い。徳田秋声とか中勘助などはそうで、そういう人の作品は、将来読み上げアプリなるものができた時のために書いておこうって思ったんじゃないかというほど、一人車の中にいる時に読み上げるのに適した作品と感じるものが多い。

青空文庫に収録される作者は往年のすぐれた文学者たちだ。地味な作品でも、一人でいる僕の退屈を紛らわすためにとっておきの話を私の耳元で語って聞かせてくれる、みたいな感覚がある。なんなら地味な作品のほうがより読み上げアプリに適しているかもしれない。机に向かって活字を読むとなると、せっかく集中力を使って読むのだからすごい話を聞かせてくれよ、みたいな構えがこちらにあるが、車に乗ってる時は、大作家が特別に孤独な私のために、みたいな感じがすごく伝わってくるのだ。芥川は「蜘蛛の糸」「芋粥」「杜子春」みたいな有名な古典作品が多いが、中には「こんなのも書くんだ」みたいな、現代風俗を背景にしたお話などもあり、そういうものは芥川がどういうところで凝ってるか、っていうところがダイレクトに伝わってくるような気がする。芥川のような天才がそんな努力をしたのは、読者を楽しませるため、すなわち車に乗って読み上げアプリで聴いてる私のためにそこまで凝って書いたのだ。これは間違いのないことだ。芥川はもちろん私の名前も、存在すら知らない。しかしそんな不特定の読者のために、汗を流してこれらの作品を書いたに違いないのだ。そういう息吹が、一人夜の車の中にいる私に伝わってくる。これは一人私だけに向けたものではないが、人類愛であり、人類の一人である私もしたがってその愛を全身に浴びる権利がある。芥川もそのことを想定していたに違いないのだ。

そして私も人間である以上、そういう人類愛を発揮して、受信するだけではなく発信できないだろうか、ということを、日々、昔の文豪の言葉のプレゼントを受け取りながら考えている。こいつはこう来たか、あいつはこう来たか、ならば私は・・・みたいな。

しかし私も少しずつnoteの投稿に慣れてきたので、とりあえず最近読んだ青空文庫の名作たちの感想文を投稿したいなあと思っている。ネタは既にたくさんあるし。

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