明日死ぬなら

「明日死ぬなら何する?それがあなたが本当にやりたいことだよ。」いろいろな人がそんなことを言っている。言っていることはわかる。でも、自分に置き換えて考えてみると、実際のところ今死のうが明日死のうが構わない。昨日も今日も明日も自分がしたいことなんて1つもない。

死なない原因は家族がいるからだ。家族の事が好きだし、悲しませたくない。誰も悲しむ人がいなくなったら、余裕で死ねる。

誰かのことが好きだという感情はある。だからその人たちと一緒にいれれば結局いいんだ、という風に思って2年くらい生きた。でも、その人たちは私のことを気にしている。私にお金をかけてくれるし気にかけてくれる。ぶっちゃけそういうのはもうどこにもいかないエネルギーだから、もったいないなあと思い、暗い気持ちになる。私を励ましてくれたそのエネルギーを私は何にも変えることができない。それなら、私ではない、他の人に、そのエネルギーを使いこなせる人に渡してくれ、と。

私は自らを自分で励ませるようになるまであとどれくらいかかるだろうと毎日絶望する。調子がいい時はなんでもない。調子が悪い時に私は這い上がってこれない。

暇な時間も何も面白いと思うことが見つからない。映画も何のためにあるのかわからない。本を読んだりもするけど、結局、自分は達成したいことなどなく、知識をつけたって何にもならないと思ってしまう。

何も変えられないと思っているからかな。何も変えたいと思っていないからかな。親から全ての私への投資を止めてもらった方がいいのかもしれない。何もやりたいことがないまま、社会に放り出されたらもしかしたらやらなくちゃいけないことが見えてくるかも。今までせっかく私に教育やお金やいろいろな経験をさせてくれたのに、その末路がこんなことになるなんて、どんなに残念だろう。どうして私はこんな風に育ってしまったのだろう。

課題に思っていることは沢山ある。でも、その中に私がいない。私がその中に入っていくのが全く想像できない。

何かしらみんな妥協してそれぞれの道を選んでるんだよ、と思うから私は私がその中に入っていくのを想像せずに何かを経験しなくてはならないのもしれない。何でもやってみなよ、ということなのかな。

とにかく、結論としていつも行き着くのは私が今までどんなに自分に都合のいいように生きてきたかということと、どんなに私がやる気がなく、欠点だらけの人間かということだ。