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混沌と監視か自由と秩序か?

争いはなぜ起こるのだろうか?とここ最近ぼーっと考えてる。

争いはあらゆるところに存在している。私の心の中にも些細な争いが毎日生まれる。自分の持っている考えの矛盾を解決するのに怒りや苛立ちを覚えることがある。たまに私は私のことをぶっ叩いて無理やり現実に向き合う。また、家族の中で、価値観が合わないと思うと、なんだかむしゃくしゃしてしまい、口げんかになることもある。耳を澄ませれば、隣の家からの親子ゲンカが聞こえてくる。テレビのワイドショーを見れば、国会で意見の違いから語気を荒げていい合う議員達が見える。そして、遠く離れたアメリカからでさえ、人種差別に対して戦う人たちの声が私たちの携帯電話に直接飛び込んでくる。

しかし、意味が伴わなければ混沌、いわゆる意味のない争いを生み出してしまう。アメリカの人種差別に関するデモを見て、果たしてこれはベストなのか?と正直疑問に思ってしまうところがある。よく詳細を辿れば、アメリカの人種差別の問題も、ことの発端は、警察官が被疑者を捕まえる時に地面に押し付けすぎて、窒息させてしまい、殺してしまったという事件だったはずだ。たらればの話になってしまうので、意味のないことだが、もし、殺された被疑者が黒人ではなかったらここまで事件は大きくなっていたのか?とふと思ったりする。もちろん、人種差別は良くない。誰にでも生きる権利があっていいし、その警察官が黒人だからといって被疑者に必要以上の力をかけたのだとしたら、それは問題だ。でも、その警察官たちは果たして人種差別をしているから黒人を執拗に地面に押し付けたのか?

誰も知らないので何も言えない。少なくともこの事件と人種差別は別問題の可能性がある。もちろん、昨今のアメリカ警察の人種差別関係のニュースを見れば明らかに黒人に対してかなり侮辱的なマインドを持っていると予測できる。しかし、今回の事件もその一連の流れだったかと言われたら、私は何も言えない。投稿された、殺害現場のビデオを見る限り、警察官たちは黒人だからどうとかは口にしていない。もし、この記事を見ている人の中で、あの警察官たちが黒人差別のためにあのような暴力行為に及んだという記事やソースを知っていれば、教えて欲しい。

この問題が見過ごされてはならない理由は他にあると思う。それは深刻なアメリカ警察組織、そして法律の問題だ。前述した通り、これはれっきとした殺人事件なのだ。それなのに、事件が起きた当初、警察官たちはあまりにも軽い刑ですませられようとしていた。世論がそれを動かしたので、今では正当なジャッジが下されていると信じたいところだ。しかし、悲しいことに、他の事件では、罪のない無抵抗な市民を殺した警察官が罰せられず、放免されることもある。この状況はあまりにも悲惨ではないか?誰も正しく人をさばき、罰することができない。

早急に法律を変えるべきだ。そうしなければ、警察は被疑者を”法の下”に殺し続ける可能性がある。マイノリティーと言われる人たちだけではない。アメリカにいる人たち全員が心配だ。罪もなく、抵抗もしていないのに殺される可能性があるなんて、何て混沌の中に彼らはいるのだ。

私たちは混沌と秩序の中を行ったり来たりしている。混沌は時たま自由になり、秩序は監視になる。その中でバランスをとって生きていかねばならない。そのためには何が問題であるか、どうすれば二度と悲しいことが起こらないで済むかを考え続けることだ。もちろん人種差別についてもこんな悲惨な事件がなくても考え続けなければならない。遠く離れた国のことを思うと同時に、私たちの周りでも起こっているかもしれない。差別をしてしまっていると感じたら、謝ればいいのだよ。素直にごめんね、って言おう。差別をしている人たちのことを差別するような態度をもってもいけない。他人を変えることは難しい。でも諦めない。本当に正しいことはちゃんと人に伝わる。分断せずにみんなでバランスをとって生きていくには、声を上げること、そして周りの人と話し合って、ベストな自分あり方を考えていくことが必要だ。