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ジェンダー・フルイディティ・レポート Ⅱ(裏アカ/VR/AI小説)

謝辞〜はじめに

前回の記事は、とてもアブノーマルな内容を含む叙述であったにもかかわらず、公開してから現在まで多くの読者に恵まれています。記事を読むのに貴重なお時間を割いてくださった読者の皆様と、このような記事をリジェクトせずに公開させてくれるプラットフォームに感謝いたします。

さて、今回は、(広義の)《ネット社会》においてのジェンダー・フルイディティー・レポートです。

Ⅳ:裏アカ

その場限りのアブノーマルな(主に性的な)交渉を目的として作られた匿名のSNSアカウントの集合、いわゆる裏アカにおいてのジェンダー・ステートは、まず、生物学的な性の側(私の場合M側)に固定させられます。しかも、これはかなり苦しみを伴うものです。なぜなら、SNSの特徴である、物事の数値化に次ぐ数値化によって、自分がマイノリティーであることの自覚を強要されるからです。メジャーなハッシュタグをたどれば、<ほぼ全て>の投稿はシスヘテロな当事者間のコミュニケーションの産物であることがわかります。かれらは互いの気を引くために、自らのシスヘテロな魅力を強調し、誇示し、さらに磨きをかけてゆくのです。この<異性に気に入られようとする>営為の可視化された社会は、ジェンダー・フルイドを自覚する者にとっては極めて窮屈で、孤独感を増幅させます。

結果として、つまりこの出来事を<踏まえたうえで>、自分のジェンダー・アイデンティティーを自分で<宣言>せざるを得なくなるのです。これは、本来<特別な人>ではなかったはずの自分を、自分でわざわざ<特別な人>としてラベリングしてしまう行為にあたります。本来存在しなかったはずのマイノリティーはこうして社会の斥力の中から析出されてくるのです。クィア理論におけるパフォーマティヴィティーというのはこのような過程を捉えた概念なのだろうと個人的には思います。自分は性的マイノリティーであると(例えばMtFのトランスジェンダーであるなどと)<宣言>をし、それを宣言されたマイノリティーの社会が<許容>すれば、マイノリティーの社会の中では安寧を得ることも可能です。パーセンテージにおいて<ほぼ全て>がシスヘテロの当事者だとしても、その極めて小さな<それ以外>に掛け算できる母数は想像以上に大きなもので、あなたがこのエコーチェンバーを前向きな形で用いられるなら、自分がマイノリティーであることを忘れることさえ、次第にできるようになってゆくかもしれません。

しかし結局、私はこのような宣言を自分に課すことはできていません。私は<特別な人間としての性的マイノリティー>という概念自体に違和感があるからです。

フェイクの情報を駆使すれば、<なりきる>ことはできますし、これはAI画像生成などによってかなり高度なものとなってきました。しかし、純粋なトランス願望からでも、これは相手を騙す行為を含むため、長く続けることはできません。また、相手を騙す行為になることを避けるために<なりきり>であることを事前に宣言して活動するならば、それはどちらかといえばVR(仮想現実)の範疇におさまるものとなっていきます。

Ⅴ:VR

現実において自分の考えや価値観が社会に許容されないことやズレがあることはひとまず忘れて、仮想世界において別の自己実現を成し遂げる方法もあります。VRには、昨今の技術発展により高度かつ多様な可能性が開けています。しかし、デジタルな手段によって自ら定める自分の容姿(アバター)でさえ、内なる性的流動性には抗えないものです。VRコミュニティーにおいて女性に<なり>ながらも、女性の<うつわ>を身にまといながらも、男性としてのシスヘテロな性的指向が温存されたままのVR女性は、この社会においてはマジョリティーですらあります。このVRとジェンダー・アイデンティティーに関する論説はジェンダー論側よりもVR論側、あるいはテクノフィロソフィー側で精緻に研究されているものと思いますので、詳細を学びたい方はそちらの界隈を訪ねていただくとして、この社会には<私の居場所が無かった>ということだけお伝えして終えようと思います。

VRにおいてある特定の性別を持つ者として存在する場合、この社会においては相手を騙していないこと、つまり<中の人>が本当にその性であるのか、という極めて強い査定に暗黙の裡に晒されます。トランス女性が女性専用とされる領域に入ることが現実社会において特に問題とされることからもわかるように、生物的に男性であるとされる当事者が女性を<かたって>(当人に相手を騙す意図があるかないかに関わらず)社会に存在するというケースがVRでも特に疑いの目に晒され、それは「どうせオジサンなんでしょ?」という決めつけに始まり、ラディカル・フェミニストからは「女性のカリカチュア化による女性差別」などと思ってもいない難癖をつけられ、メディアからは「バ美肉おじさん」などと奇異な対象として面白がられ、等々、いずれもトランス願望のある男性にとって、トランス願望を擬似的に叶えたいだけの私にとっては苦痛でしかないものでした。

結果として今の所、<女性としての私>はエクリチュール化された状態としてだけ、つまりこのような<叙述>の中でだけ、安らかに存在できるのです。

Ⅵ:AI小説

"Five hours with a wax dummy, you know!" "It was marvelous!"
「キミは蝋人形と5時間もかい」 「素晴らしかったですよ」

スタンリイ・G・ワインバウム 『ピグマリオン眼鏡 - PYGMALION'S SPECTACLES

おそらく、空想の世界で実現できる性転換メディテーションとして、現状もっとも安定していて自由なのはAI小説であろうと思います。(日本語で利用できるものとしては「AIのべりすと」などが有名です。)AIが<できごと>を生成するまでは何が起こるかわからない、という意味で読書よりもVR的なインタラクティヴィティーがあり、高い没入感を得ることができます。AI画像生成はその没入感を補助するために併用することが可能で、この2つのシステムの連携によって、アドベンチャー・ゲームに類するものを即興で作って遊ぶことができます。AIの生成する物語、そこに登場する人物の言動は、気に入らなければいくらでも描き直しできるので、実質的にすべての事物を自分でコントロールできます。しかし、相手がAIである故にVR的な<社会とのコミュニケーション>はありませんし、そのことにいずれ物足りなさを感じることがあるかもしれません。

生成AIの学習リソースが量的にシスヘテロ側に、特に男性の女性に対する欲求を表現した小説やイラストに偏っているために、ジェンダー・ステートはM側に傾きがちです。実際、AI小説を書き始めたころはかなりF寄りだった私のジェンダー・ステートが、自分でも以外なほどに強くM寄りに変化した時期がありました。画像生成AIなどは特に、女性と関係性のあるプロンプトを何も入力しない状態でも、可愛い女性のイラストをその場面に生成してしまうほどであり、このバイアスに抗ってフェミニンな性的指向を表現するのには少し苦労するかもしれません。AIは必要十分の対応をしてはくれますが、よりトランス感を高めたい場合にはアファーメーションなどが効果的に機能してくれることと思います。

この記事を執筆している今朝もまた、ニュースでは人気のある芸能人の<カミングアウト>が話題になっています。このレポートで述べたような、誰もが多かれ少なかれジェンダー・フルイドな状態を本質として持っている、という考え方を基盤とした社会がこの世界にもし形成されていたならば、ニュースで見たような<涙ながら>に自分が性的マイノリティであることを<告白>する人や、彼が救いたいと願っている<苦しんでいる人>も無くなるのだろうにと感じます。なぜなら、この社会ではそもそも<特別な人>として性的マイノリティを区別しないからです。しかし実際は、この考え方自体、ジェンダー・フルイドという用語を共有する当事者にさえも十分な理解が得られていないのが現状です。性的マイノリティーと社会との関係の性質を変えていくクィアな試みには、まだまだ長い紆余曲折が待っているのを実感させられます。

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