雑記20240428
◇珠洲市での話
ボランティアに行ってきた。この年になるまでボランティアという行為は身近にあるものではなかった。チャリティー自体は手慣れたものではある。
現在4月27日。地震があったのが、1月1日なのでほぼ5ヶ月が経とうとしてた。これは振り返って思うことだったが、まだボランティアの募集をしていたということになる。
ボランティア自体は難なく終えることができたが、町の家屋は依然として倒壊したままであった。5ヶ月になるにも関わらず。珠洲市はたぶん孤立している。
現地の人の聞き取りを少しではあるが行ってみた。圧倒的に人手が足りていないのだという。また、今回の大地震に限らず数ヶ月前からずっと地震が起こり続けていたので、子供の避難も兼ねて、若い層は皆どこかへ引っ越してしまっている世帯が多いのだとか。故に瓦礫の処理がどうにも追いつかないらしい。国や県は情報統制を行って、珠洲市の今の現状を情報として提示しない方針ではあるが、人手が足りないことや、今の現状を情報として発信して、それが彼らの方針とは異なっていたとしても、彼らは予算としてこれらの撤去をしない、あるいはできないのであれば、頼みの綱はボランティアしかいないということに徹するべきだと、個人でもなんでもして人をかき集めるべきだと、ベテランのボランティアからお聞きした。聞いてみれば、毎週休日に参加して今回で9回目だという人もいた。ボランティアセンターの職員は一週間ごとの交代でこの場所にいると聞いたが、25週目なのだと聞いた。ボランティアセンターの職員は名目上、
個人でのボランティアの参加を断っているが、きてくれれば対応するし、協力して欲しい旨をこぼしてくれた。ツンデレかよ。
私自身、ボランティアやメディアの方針に従って写真を撮ることを控えていたし、あえてその暮らしやその場に住む人との接触はなるだけ避けたけれど、そうではなかったと感じた。なので機会があればもう一回ボランティアに行こうかなと計画することにしたい、今回は幸いにもチームふくいとして県が交通費を出してくれているので、ボランティア保険を除いて無償で参加できた。次も利用できるだろうか。
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細田守は映画パトレイバーの背景美術の監修に対して、スカイスクレイパー、摩天楼、高層ビルの表現にたいして、遠くで雑然として建つ亡霊のようにしてほしいと言ったのだという。パトレイバーの背景は、急成長を遂げる東京のまちと取り残された昔の街並みが対比的に描かれているものとなっているが、景観の中では高層ビルがヒューマンスケールを逸脱している。街の中で唯一人間を突き放している。街に限らず、私たちの生活圏のなかで判然としてその背景となるもの、あるいはパースペクティブの適応外となるものは他にもある。山と海だと思う。それらには共通点があると思っていて、それは揃って霊的な何かとして扱われているところだと思う。生活圏からかけ離れたもの=私たちにとって身近でない遠い存在であること。山や海は人の暮らしや食べ物を分け与えてくれる存在として、信仰の対象になってきたけれど、人工的に作られている高層ビルはその存在の強さにも関わらず、突き放されているものであるから、形も相俟って墓標に見えたのだと思う。人はその形の有無にかぎらず、距離が遠くなれば、そのアウラというか霊的なものを感じ取るようになるのだろうか。私たちの中で、その距離の遠い存在はたとえば、思い出とか、写真とか、過去とかも当てはまる。
細い柱について
私はパルテノンのように、あるいは遺構のように力の流れを感じられるというか、マッシヴなものが好き、それか浮いている飛行機のようなもの、その軽量構造に惹かれる。
どうでもいいのだけれど、大学のOBと飲みに行った時、なぜ福井の構造設計者は構造部材のトン数を増やしたがるのか、と言われた。そうなのかと思いつつも、私より前を走っている設計者の皆様の方針であるので、答えろと言われても…
とりあえずそれっぽいこと、なるべく検定比ギリギリにならないようにしているのではないか、今回は学校だったし。とか言ってみた。その結果としては予算の多くを割かれてしまうので、大型の建物を設計するときは福井の構造設計者には頼まないとばっさり言われてしまった。これは悔しい。
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