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この10数年、とんと疎遠になってしまってるなあ…

いや、疎遠と言っても、夏休みや正月には家族で帰郷してるので、親不孝してるわけではないし、定期的には会っている。

じゃあ何が疎遠かというと、妻や子どもが間にいるので、直接じっくり話す機会がない。

特に学校の先生になってから、仕事のことを話すこともあまりない。聞かれることもそんなにない。教頭になる時ももちろん事後報告だし、それについてそんなに話もしなかった。

前の仕事の時は、車移動の営業で、数ヶ月に一度、実家に立ち寄って親子3人で何度かお茶したなあ。あれも良い時間だったなあ。

いや、だからといって今、別に何かを避けてるわけでもない。だからといって話す努力をしてる訳でもない。

「じゃ、今からお話しましょう」となれば、話すけど、まあ、とにかく機会がない。持ててない。

母には、37歳で学校の先生になるまで、結婚しても落ち着かずの転職人生だったので、なんやかんやと心配かけたなあ…という気持ちと、やりたいようにやらせてくれて本当に感謝の気持ちでいっぱい。

年子の姉と2人姉弟で、どちらかというと過保護な方だったのかな。
「こうしなさい」と言われたのは、中学校の部活動で体育系のクラブに入りなさいということと、大学留年はダメだということぐらいだったような気がする。それだけは守った。
他はやりたい放題だったけど…。

小学校の頃、気弱でいじめられてたりした時も、中学校の頃、いろんなことに悩んでたりしてた時も、母はとやかくは言わずに見守ってくれて、どんな時も話を聞いて向き合ってくれた。思い出せないくらいたくさんの危機を救ってくれていたのだと思う。結婚するまでは母に相談することが多かった。

いや、相談と言っても大体、直前報告とか事後報告がほとんどだったんだけど…。

母との思い出で思い出すのは、ターニングポイントでの決断における助言だ。いくつかある。

高校受験の時に、受験直前に成績が奮わず、1つ下のレベルの行きたくない高校を受験することになったのだけど、蓋を開けたら1つ上のレベルの行きたい高校が定員割れをしていたので、母の助言で「志願変更」して、結果的に1つ上のレベルの高校に行けた。

大学4年の就職活動をしていた時に、テレビ番組制作の仕事をしたかったが、就職試験が上手く行かなかったので、地元で、父の紹介のカー用品販売系の会社面接を受けることになった。

そのために帰郷したのだが、帰郷した時には、まだ面接する日が明確になっていなかった。

その時、母は、やりたい仕事ではないのはわかっていたので、「ほんとに面接受けることにしていいの?断ってもいいよ。」と言ってくれた。そして結局、面接は受けなかった。

それから3年フリーターして、やりたいことを見つけ、引きこもり相談の仕事に就くことになっていくのだが、ターニングポイントでの母の助言が私の人生に多大なる影響を与えてきた。

あの時、もし面接を受けていたら、やりたいことをやる人生を歩んでいなかったのかもしれない…。

今の自分を形成してくれた母には感謝してもしきれない。

今年の母の日には、久しぶりに花を贈った。

もうちょい、親孝行しなきゃな。

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