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22歳の頃から、直接、人の役に立つことを仕事にしたいと思って生きてきた。でも、それができていない時が結構長くあった。
やりたい仕事だった引きこもり相談の仕事を辞めて、どう生きていくかを考えていた頃、何のために生きているかわからず、「生き苦しかった」。
そんな時、既に結婚して子どもがいたので、家族の役に立てているからいいのではないかという考えもあるのだが、22歳の時に「人の役に立つこと」を仕事に、生きがいにして生きていくことに決めたので、そこに向けて生きていくことが使命となっていた。
そして、約10年後、学校の先生になった。「人の役に立つ」ということが難しいと感じる日々である。
一口に、「人の役に立つ」と言うけれど、なかなか難しい。
何が難しいかというと、その人の役に立つために一生懸命やってあげたとしても、その人が嫌だと感じることもあるからだ。
これが子どもの場合は、成長を促すため、がんばってもらうため、心を鬼にして自分が悪者になってもやってあげることが良いということがある。
これが大人の場合でも、上司と部下など、自分が悪者になっても部下の成長のために言ってあげることが必要ということがある。その塩梅が難しい。
でも、「私は正しい。」とか、「普通はこうだから。」「あの人が可哀想だから。」「みんな困ってるだろうから。」「普通されたら嫌な気持ちになるから。」「みんなそう思ってるに違いないから」など、当事者じゃないのに、「その人のためを思って」することは、人の役に立つことだと思うのは、違うと思う。
その人に確認しているのならいいが、その人が反対に嫌だと思っていたらこんな迷惑な話はない。それは、自分の価値観の押し付けでしかなくなる。着地点がない。巻き込まれたくない。
「人の役に立つ」
私の定義は、
・本当にその人の助けになっているかどうか考える。
・感謝の気持ちを伝えてもらっている。
・第3者から人の役に立っていると言ってもらえている。
・その状態、関係を無理に続けて、共依存にしない。
・来る者を拒まず、去る者は追わず。
自分の永遠のテーマなのは、相手の役に立つと思ってやっているので、そのうちに相手が自分を必要としなくなったら離れていくものなんだけど…
それでいいんだろうかって最近思う。何か自分から距離を詰めることをあまりしなくなってて。自然でいいんですけどね。
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