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小浜逸郎『日本語は哲学する言語である』を読む

日本語しか知らないでいると、日本語の恩恵を享受していることになかなか気づけません。この哲学的な書物は、その恩恵に気づかせてくれます。自分で使う日本語をネタにして、言語哲学を始めることができます。

例えば、第二章の「いる-ある」問題。

要するに「現存在(Dasein)」も「世界内存在(Sein-in-der-Welt)」も
「共-現存在(Mit-dasein)」も、日本語ならひと言で「居る存在」とでも
表現すればよいわけです。
しかし哲学者・ハイデガーが、人間を表現するのに、このようなもってまわった規定をせざるを得なかったのには、理由があります。それはまさに、欧米語には、「いる」と「ある」の区別がないからです。――p.85

と、ハイデガーの存在論に触れています。

日本語についての哲学的な気づきが増すと、日本語を使っている自分に驚くとともに、日本語をわからずに使っていた自分にも気づけます。

ちなみに、東洋人は、行為できたとき、わかったつもりになる傾向があり、西洋人は、分類できたとき、わかったつもりになる傾向があります。

私は、この書物の章立てから、次の意味も読み取りました。

日本語を深く知らない日本人に真実は語れないよ。

以上、言語学的制約から自由になるために。

日本語文法は哲学的な掘り下げが甘いようです。

義務教育における英語科は、日本語をより深く知るための教科であれば十分ではなかろうか。鵜呑みにしてきた日本語を、かろうじて表面的に使う生徒に対し、英語を強制するのはいかがなものか。