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聖餐式や聖体拝領の原点

キリストによって制定されたこの儀式の意味はいったい何か?

『主の晩餐』についての書籍を刊行


キリストが定めた唯一の定期儀礼である『主の晩餐』の本来の姿を追求し
その不変の意義を考察する

今日のキリスト教界では「ミサ」や「聖餐式」とされ、キリストの復活の記念、また信徒がキリストと一体となる有難い行事とされているところのキリストが最後の晩餐で制定した『主の晩餐』について、その本来の意義を解説し、儀礼の意味するところに考察を深める書。

「聖なる晩餐 主の到来までの定期儀礼」

amazonから刊行中 四六判 縦書き 248頁
電子版 ¥ 567   紙本は正常に購読可 ¥ 1885

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最後の晩餐の席でキリストによって創始された会食儀礼である『主の晩餐』は、 今日までにキリスト教界に於いて聖体儀礼の秘跡や、聖餐式として信者がキリストとの関わりを深めるための儀式とされてきた。これは無酵母パンと赤葡萄酒による簡素な晩餐の儀式である。

しかし『主の晩餐』の本来の姿や意義はどこにあったのか。
また、キリストが到来する時にまで行われるとされたこの会食儀礼が、今日行われるべき理由は何か。

『主の晩餐』に込められたキリストと共なる「聖なる者ら」との関わりを旧約聖書も初期の時代、イスラエル民族がモーセに率いられ出エジプトする夜の『過ぎ越し』にまで遡って考察することで、そこに神の悠久の時にわたる人類救済の偉大な意志と歩みとを見出すことになる。その夜は「アビブの月」、後にはバビロニア式に「ニサンの月」と呼ばれる春分の頃の陰暦14日であった。

その全体像の中でイエスの創始された『主の晩餐』の会食儀礼を見るなら、信者のキリストとのつながりを得る以上の意義、キリストと共に人類救済の業に加わるという、キリスト教らしい利他的な目的に参与する決意表明の機会であることが明らかになる。

「わたしの肉を食し、血を飲まなければ命を持てない」とイエスが云われたからといって、それが律法契約に在ったユダヤ人に語られていたことは忘れてはならず、聖なる食事に与るなら単に天国行きが叶うと思い込むべき謂われはない。それが何故かといえば、「天国」という捉え方ではなく、人類を益する『天の王国』という視野からイエスの言葉を見るなら、そこに利他的でキリスト教らしい信仰を見出すことができるのである。

キリストの再臨まで継続し、あの最後の晩餐が二度目に天界で行われるに至るまで、この儀礼が地上で行われている間はイエスの宣教のテーマであった『天の王国』が実現することはない。その理由は、その『天の王国』に入るべき人々が未だ天に召されておらず、地上で『主の晩餐』を行うことで、キリストに倣ってその一員となることの望みを表している段階に在るからである。

その『王国』とは、キリストと伴なる『聖なる者ら』によって構成される『聖なる国民、祭司の王国』、血統によらず信仰と神の選びとによる「真実のイスラエル」によって天界に設立されるものであり、その働きは千年の支配の間に、人類が負ってきた『アダムの罪』という倫理不全を贖罪によって除き去り、神の栄光ある創造物として人々を回復させるところにあり、その王国の支配は贖罪の間に地上に秩序と平和とをもたらすことを目的とする。

旧新の聖書から『主の晩餐』の意義を辿り出すことにより、この観点に到達するなら、それはキリスト教の趨勢となってきた欧州的な教会の教理からでは探ることの困難な高度な理解に達することになる。ここに本書の意義が有り、それは永い年月にわたって中世的蒙昧の中に封じられてきたキリスト教の真相、その驚くべき神の目的と『主の晩餐』の意義とを世に訴える次第である。

本書内容は、ブログなどで毎年の挙行の時期に書き続けてきた文章を中心に、一部を書き加え、補筆訂正を施し、幾らか新たな文面を各所に加えてあり、年毎のこの儀礼を挙行なさる方々の意識や信仰の一助になればと思う。

この儀礼をユダヤ暦のニサンの月の14日に行うことは、「新十四日派」の名称の由来ともなっており、これは第二世紀小アジアの使徒ヨハネ、フィリポの薫陶を受けた人々と今日の我々とをつなぐものであり、今、この現代に欧米型ではない「アジアのキリスト教」を唱えるものである。

この儀礼の挙行すべき日付については歴史上「パスカ論争」と称され、二世紀から四世紀にかけて初期キリスト教界で何度も議論の対象となっていたが、今日の大半の教会ではこれを「解決済みの問題」と一蹴しつつ、その一方で『晩餐』でもなく『無酵母』でもなく、『葡萄酒』でもない仕方で、この儀礼への内実を見失ってきていることであろう。四世紀のアンブロジウス以来、儀式の最終にパンはキリストの肉体に、葡萄酒は血に実際に変化するという異教的な神秘主義を主張するようになって、欧州型キリスト教は今日でもそれに似た捉え方に終始し、信者がキリストと一体になる秘跡と捉えてきた。

だが、この儀礼に与る者が救われるのではなく、その者がキリストと共に世界の罪の贖いを備えるのであって、そこには公共善への偉大な大志がなくてはならず、身内の救いに喜んでいる場合でないキリストの自己犠牲の道を共にする決意あってのものである。
それは『天の王国』による人類の『この世』という隷属からの脱出を予型しており、個人の安逸を求めるお目出度いものではなく、パウロも云うように『主の死を触れ告げる』ものなのである。

『主の晩餐』は、旧約聖書によれば、出エジプトの夜に、とても叶いそうにないイスラエルの出立を準備した上での子羊の食事『過ぎ越し』を明らかに予型としてもので、彼らの解放はその日に実現したのであった。そのニサン14日は代々にわたる記念すべき夜とされ、まさにイエスという『世の罪を贖う、神の子羊』が屠られる日として、遠くモーセの時代から定められていた。
 ⇒ 「出エジプトの子羊の血とキリストの犠牲」

しかも、イエスを除き去ろうとしていたユダヤ教の体制派は、その時代までにニサン15日に『過ぎ越しの食事』をする習慣に変質し、この一日の差が、彼らをして約束のメシアを殺害するためのニサン14日という一日の猶予を得たのであり、今日までもパリサイ派であり続けるユダヤ教も、この15日順守の習慣のままであり、自分たちがその前日に謎の空白を以って、メシア排除の行動していたことを証しているのである。

このほか、キリストの死に至る過程を描写した旧約の預言が次々にイエスの一身上に成就しており、旧新の聖書がどれほど約束のメシア=キリストに焦点を当てているかは疑いがないことである。これは実に偉大な神の意図に違いなく、その死の価値は神の目に極めて貴い。(詩篇116:15)
それであれば、人がそれを年毎に記念するに充分値する。

本書は、この「新十四日主義」のキリスト教に賛同頂ける方々に、年毎にキリストの再臨と聖徒の現われを、また、この儀礼の場をしつらえつつ待ち続けることの意義を改めて思い起こす助けとなるよう本書を刊行した次第。

本書の内容は理解が然程に困難ではないとは思うものの、それでも程度の低い内容ではないので、お読みの方々には、もし宜しければ年毎の儀礼に祭にお読み頂き、『主の晩餐』に込められた意味の深さの一端を共にできるよう願うものである。

儀式そのものの「次第」のようなものは聖書に存在しないうえ、聖霊注がれた聖徒の立場にない我々が、如何にこの儀礼に関われるかも巻末の付録に記しておいたので、方々の儀礼の挙行の助けになればと思い、ここに刊行した。
キリスト教での最も重要なこの儀礼についての理解を得、また、挙行を志す方々からの購読を願いつつ。


以下、内容

序 キリストの命じた唯一の定期儀礼

1 キリストの受難
・昼と夜  ・ベタニヤのマリア ・周到に準備された場

2 聖なる晩餐の意義
・ふたつの契約の目的 ・主の晩餐の原形である過越し祭
・ユダヤのセデルから主の晩餐へ ・主の晩餐を巡る時のせめぎ合い
・王なる祭司となる人々・選ばれた一部の者のための主の晩餐
・十二使徒の第一の復活を教える主の晩餐  ・今日の意義

3 聖霊との関わり
・王なる祭司、聖なる国民 ・霊の体への再創造
・聖霊注がれた者とキリストの晩餐 ・『主の晩餐』への信徒の関わり

4 キリスト教界での扱い
・使徒の伝承を守った小アジア
・反対される十四日派
・聖体拝領や聖餐式と変じた『主の晩餐』

5 ディダケー「十二使徒の遺訓」から
・『主の晩餐』への記述・ディダケーの中の聖徒
・パウロの述べたミュステーリオン ・『主の晩餐』は秘蹟に非ず

6 無酵母パンから生じるエクレシア
・天からのパンとしてのキリスト
・イエスと共に死に、共に生きる聖徒
・無酵母パンの共同体

7 キリストの血が為し遂げる偉業
・その骨は守られる・新しい契約の大祭司
・キリストの血の意義・飲血を禁じた律法の定め
・血の浄め・儀式の価値

8 忘れられてきた『主の晩餐』の意義
・天での晩餐の予型 ・ユダ・イスカリオテの倍餐
・記念儀礼である『主の晩餐』

9 忠実で聡い奴隷は夜を徹して主人を待つ
・『夜』の到来 ・七十年後に回復した崇拝
・終末の崇拝の回復 ・シオンを嘆く者ら
・忠実で聡い奴隷  ・主人を待つ者は誰か

結 語 主人の帰還により栄光を受けるシオン

付 録
表象物の準備  無酵母パンの入手  式の手順  日付の選定


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