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出エジプトの子羊の血とキリストの犠牲

モーセがエジプトに来てファラオの前に立つようになってからというもの、この地には次々に災いが降りかかるのですが、ファラオは心を頑なにしたままでイスラエルに荒野に行かせる自由を与えるどころか、かえって奴隷労働を苛酷にします。
しかし、イスラエルの神からの打ち続く九つの苦しみを受けたエジプトを見て、大臣たちまでがファラオに向かって「もうエジプトが滅んだも同然なのをお考え下さい」とイスラエル解放を懇願するほどになっています。
その状況下で、イスラエルの家々では奇妙な事が行われていました。

その日の終りの夕闇迫る中で、イスラエル人らは家の入口の柱と鴨井に羊の血を塗り付け、赤黒く染めているのです。
何やら物々しい雰囲気ですが、それを見る地元のエジプト人にはいったい何事かと思われたことでしょう。しかも、それまでイスラエル人のためにエジプトの民には次々に痛々しい災厄が臨んでいたものですから、これも不気味な凶兆に見えても無理はありません。
実は、この血はこの春先の各家庭で食卓に供される屠られた子羊のものであり、神はこの血について深い意味を与えることになるのでした。

さて、アブラハムの神、イサクの神、ヤコヴの神は新たに[יהוה]英字での「YHWH」*と名乗られ、覇権国家エジプトに向けてモーセとアロンとを差し向け、彼らの後ろ盾となられたからには、アブラハムへの約束を成し遂げるために、エジプトに対して徒ならぬ行動を起こされることでしょう。
YHWHはモーセを『ファラオに対する神とし、アロンを預言者とする』とそれぞれに役割を与えます。モーセは神の代理となり、ファラオに語るのはアロンになるということであり、吃音気味のモーセに配慮して兄アロンを代弁者としたのです。モーセの語る能力は限られていたとはいえ、神の信任はモーセに厚いものであることを物語っています。 *[יהוה]発音不明

しかし、彼には一つの怠慢があり、なんと神が彼の命を狙うという事態が一度起りました。それはアブラハム以来その子孫に命じられてきた割礼を彼がケニ人の妻との間に出来た息子ゲルショムに施すのに無頓着であったためでした。これは、夫の危機を悟った妻チッポラの咄嗟の施術によって事無きを得ましたが、モーセは時折このような隙を見せるところがあり、それは彼の生涯の終りにも影響を与えることになります。(出エジプト4:24-26)
それでもモーセの卓越した立場は神の前に終生変わりなく、神が『顔と顔と合わせて語った者はモーセの他にいない』と言われるほどでありました。(民数記12:7-8/申命記34:10)

一方のエジプトについては、当時のファラオが誰であったかも、王朝がどれかも今では定かでありません。聖書そのものの系図の年数を辿ると西暦前1500年頃になりますが、同時に聖書のモーセの時代を記す「出エジプト記」は「海の民」という地中海を荒らし回った鉄器を使う民族が当時海岸地方に居たことを僅かながら伝えているところからすれば、今日の考古学研究からすると、300年ほど新しい時代に引き寄せ前1200年とする必要があるので、この辺りの年代は聖書が正しいか考古学が正しいのか、現在のところ不明ではあります。

ともあれ、モーセとアロンは、まずイスラエル同朋のところに行き、年長者らを集めて父祖の神YHWHの意向を知らせ、また奇跡を証しを見せます。すると族長らはアブラハムの神が自分たちイスラエルの苦境に注意を向けられた事に平伏して感謝を表すのでした。

それからアロンとモーセはいよいよファラオの前に立ち、YHWHという神からの求めとして、イスラエルを三日だけ荒野に行かせて、その神を崇拝させるようにとファラオに求めます。その印としてアロンの杖を蛇に変えて見せるのですが、エジプトの異教の祭司らも自分たちの杖を蛇に変えて見せます。つまり、モーセらの印などは自分たちにもできることであるとして、モーセらを取るに足りない者と印象付けたのです。ですが、モーセの蛇は異教の祭司らの杖が変じた蛇らを飲み込んでしまい、杖に戻したときには彼らの杖は無くなってしまうのでした。

しかし、もとよりエジプト人にとって、荒野暮らしのベトウィン風情などは嫌悪の対象でありますから、ファラオはそのYHWHなる聞き慣れない名の神に礼を示すいわれもなく、三日の崇拝をこじつけにして奴隷労働を怠ける口実くらいに受け取られるばかりです。
そのため、イスラエルは労働条件をさらに厳しくされてしまい、そのことをモーセたちのせいであると迷惑がる同朋さえいる始末で、彼らは自分たちのことは放っておいて、このままエジプト人に仕えさせて欲しいとまで言います。

それでも神に命じられたモーセとアロンは、朝にナイル川に出て行くと、神から予告されていた通りにそこにファラオが出て来ていました。二人はファラオの頑なさを責めてから、その場でナイルの川のすべての水を血に変えてしまいます。そのため人々は川の水を用いることができず、ほかの沼などの水源から水を得るだけにされていまうのでした。
しかし、ここでもエジプトの異教の祭司らも水の幾らかを血に変えて見せるので、ファラオはモーセとアロンにさほどの畏敬を持ちません。

次いで、血の災いの後に、モーセたちはエジプトの地にカエルを大量発生させて、家々の中にも台所にもカエルが居るという気色悪い状況にされますが、やはり異教の祭司らも幾らかのカエルを出して見せることができるので、ファラオの前にモーセの権威は認められるに至りません。

次に、モーセたちは地の塵を無数のブヨに変えて、それらが家畜にも人にも取りつくことになりました。異教の祭司らはカエルまではモーセに対抗できたのですが、この第三の異兆からは真似することができなくなり、ファラオには「これは神の指です」と訴えることになります。だからと言ってファラオは奴隷イスラエルを手放そうとはしません。

モーセとアロンはファラオが水辺に出て来たところに話しかけ、次にはアブの大軍が襲うことを告げます。この人を刺す第四の災厄から以後はイスラエルが住むゴシェンの地には臨まないよう神は配慮され、苦しみはエジプト人にだけ下されるところとなってゆくのでした。
これにはファラオも困り果て、モーセを呼んでイスラエルが荒野に出て自分たちの神に犠牲を捧げる事を許すと言うので、神はアブを過ぎ去らせて一匹も見ないまでにします。
しかし、災いが去ったのを見たファラオは前言を翻して、イスラエルが荒野に出ることを許しません。

そのため第五の災い、家畜の疫病がエジプト人の家々に降り掛かることになります。古代の人々にとっての家畜は様々な用途があり、それ無くして生活が成り立たないほどでありましたから、これは生活上の大きな打撃となります。では、それでファラオはイスラエルの三日の崇拝も許すことはありません。

そこで神はエジプト人とその家畜の皮膚に水疱の災いを下し、モーセらによる第六の災いとします。この人までも襲う災厄により、もはや異教の祭司らもファラオの前に立てない有様となってしまいますが、ファラオは意固地になっており、モーセらの言う事を許しません。
ここに於いて神YHWHはファラオに「わたしは疫病によってあなたも民も討ち滅ぼす事さえできた」と言われます。「だが、あなたにわたしの力を見せるため、そうしてわたしの名を世界に知らせるためにあなたがたを生かしておいたのだ」と宣告されるのでした。

さらに第七の災いでは、猛烈な雹があって戸外の人と獣を死に至らせ、多くの樹木も害を受けることになりますが、エジプト人でもモーセたちの宣告に留意する者らが出始めます。その雹は普通のものではなく、その中にきらめく火のような光を伴うものであったと出エジプト記は述べます。
ファラオはモーセを呼び出し、自分が間違っていたとして、災いが止むように執り成しを求めるのですが、やはり災いが過ぎ去るとファラオも廷臣たちも心変わりしてしまいます。これはモーセが予告していた反応でもあったのです。

そこで神はイナゴの大軍を起こしてエジプト人を襲わせることになります。この第八の災いは、空を覆うイナゴが雹害から残された緑も尽く食い尽くしてゆき、廷臣たちはファラオに懇願して、もうエジプトが滅んでいると訴えるのでした。
そこでファラオはモーセらを呼び出し、イスラエルの荒野での崇拝を認めると言うのですが、イナゴの姿がまったく絶えると、たまたま蝗害が起こったのだと思えるようになったのでしょう。ファラオは前言を翻します。

神はそのエジプトに暗闇を次の災いとして臨ませます。それは昼も夜のようになるという以上の闇で、エジプト人はその闇に触れることができるほどの濃密な何かの混じった大気が周囲を覆ったので、人々は立ち歩くことも難しく、ほとんど活動することができません。
もう災いは九回にも及んでいるのですが、それでもファラオは災いが去るのを見るとモーセへの言葉を守らないのでした。

そしていよいよ最後の災いがエジプトに下されることになります。
モーセに現れた神YHWHは、イスラエルの各家庭で一歳の雄の子羊を、あるいは山羊でも一頭を取り分けておき、月の14日にまたがる夕暮れにそれを屠って食べるようにと命じます。
しかも、その血を別に取っておき、ヒソプという植物の枝をその血に浸してから各家々の入り口の鴨井と二つの柱に塗り付けるようにと言われます。
その夜に天使がエジプトの全土を通過し、戸口に血の塗られていない家々には入り込んで、その家の人も家畜も尽く長男の命を奪ってゆくので、それを望まないなら、子羊の血を印とするようにと言われるのです。(出エジプト12:5-7)

古代の暦での春先のアヴィヴの月の14日、その晩イスラエルの家々では子羊の肉の食卓を囲みます。異例なことに、彼らは旅支度を整えた上でそうするように言われます。なぜなら、その夜にファラオは必ずイスラエルの出立を許すとYHWHは言われるからです。その食事ではパンに酵母を入れて時間をかけてふっくらしたものを作るゆとりもなく、それぞれカリカリとした無酵母のパンを焼くようにとも言われます。

イスラエルがその食事をとっている夜に、はたしてエジプト人の家々からは叫び声や慟哭が聞えてくることになりました。YHWHの言葉の通りに長子たちが失われていったからです。
ファラオの宮殿も例外とはならず、貴重な継嗣を失ったファラオの悲しみは深く、ついにモーセとアロンを呼び出して、著しい害の元凶となったイスラエルがエジプトを出ることを許すのでした。

イスラエルはその夜の内に出発を始めますが、一般のエジプト人にとって彼らが出て行くことは厄介払いであり、むしろ自分たちの持物を与えてでも出て行って欲しかったため、イスラエルはエジプトから多くの金品を持ち出すことにもなるのでした。そのうえ、エジプト人の中からも神YHWHの驚嘆すべき力に信仰を懐くようになり、イスラエルと行動を共に荒野に出ることを決意する人々さえ少なからず現れます。

こうして全イスラエル十三の部族がついにエジプト奴隷状態から救い出されることがはっきりしたのは、エジプト陰暦アヴィヴの月の14日に入った夜のことでありました。当時の暦は日没で一日が終わる数え方をしていたのです。

神はこの第十の災厄がエジプトに臨む前から、それがイスラエル解放の決め手となること、そのアヴィヴ14日にイスラエルがエジプトから旅立つことを予告したばかりでなく、その日付けに深い意味を与えて以後イスラエルの中で記念の祭りとすべきことも命じられています。
『この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日をYHWHへの祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとしてこれを守らねばならない』。(出エジプト12:14)

このアヴィヴの月の14日の始まる夜に、イスラエルでは一家で(または十人ほどで)一頭の子羊を屠ってその肉に苦菜を添えて食べ、無酵母のパンを食べる食事儀礼が行われることになり、これは『過越しの祭り』[ペサハ]と呼ばれることになります。『約束の地』に入ってからのこの食事儀礼では、家々の戸口に子羊の血を塗り付けることはなくなりましたが、やがてその地の産物である赤葡萄酒もその晩の食事に添えられることになります。そうして後代、キリストの最後の晩餐の様式が整えられることになるのでした。

出エジプトの夜に同じくアヴィヴの月、後にそれはバビロニア暦の名で「ニサンの月」と呼ばれることになりましたが、その14日にイスラエル解放のための神の最後の力の表明を記念して『過越し』と呼ばれたのも、天使がエジプト全土を通って行ったときに、門口に血の贖いのある家々についてはその家を「過ぎ越して」その長子の命が保護されたことを記念するためであったのです。その祭りの晩が、キリスト最後の夜ともされたのでした。(マルコ14:12)

もちろん、エジプト最後の災厄でイスラエルの長子が贖われた事と、キリストが同じ日に『世の罪を取り除く神の子羊』として磔刑に処された事とは深く関係しています。(ヨハネ1:29)
それは「だれでもキリストの血に与れば救われる」という単純なものではありません。子羊の血の代価で救われたのは長子であって、ほかの人々はその長子の救いに付随して脱出できたというに過ぎないからです。
キリストはその同じ暦の夜に、使徒らに向かって『これをわたしの記念として行ってゆけ』と新たな食事儀礼を命じられています。(コリント第一11:23-26)
この最後の晩を迎える一年ほど前にイエスはこのように言われていました。
『人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない』。『生きている父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるのだ』。(ヨハネ6:53・57)

それが、ニサン14日の無酵母パンと赤葡萄酒による新たな定期儀礼であり、無酵母パンはキリストの体を、赤葡萄酒はキリストの血をそれぞれ表しています。
それを受ける弟子らは、キリストの体に共に与ることになり、その血を飲んで『人類の初穂』「真実のイスラエル」『アブラハムの裔』に含まれるための『新しい契約』に入ったことを示します。(ヤコブ1:8/ルカ22:19-20)
それはキリストによる『新しい契約』が、「長子」に関わっていることを知らせるものであり、「長子」でない者が得られる「救い」ではないのです。では、その『長子』が表す者とはいったいどのような者なのでしょうか。この疑問はなお残ります。

さて、今日この儀礼は、諸教会では「聖餐」と呼ばれて、キリストに復活を祝い、信者らがキリストと結びついていることを喜ぶ機会にされています。
ですが、パウロはそれを『主の晩餐』と呼び、『このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主の死を告げ知らせる』ものであると教えています。(コリント第一11:26)

ですから、本来の『主の晩餐』は、「晩餐」であって出エジプトのアヴィヴ14日に行われることによって、キリストの犠牲がイスラエル解放の子羊の前表であったことに神の不変の意図を畏敬するべきものです。
また、これは昼間に行う「復活の祝祭」ではなく、「キリストの死」が立証した偉業、父である神への忠節な愛の『完全な犠牲を捧げた』ことの記念であるべきものです。(ヘブライ10:12)
それによってイエスが倫理の完璧に到達されて『完全にされ』、創造物の中で『ただ一人不滅に至った』ことの深い意義を記念するものでもあります。(ヘブライ2:10/テモテ第一6:15)

キリストが犠牲となって死を遂げたことにより、創造物からの神への真実な『忠節な愛』[ヘセド]が創造界に初めて立証され、それによって神を誹謗する悪魔とその道に従う者らのすべては、キリストの『ご自分の死によって、死の力を持つ者、すなわち悪魔を無に帰さしめた』と聖書は告げ、さらにこう述べています。
『万物の帰すべき方、万物を造られた方が、多くの子らを栄光に導くために、彼らの救いの君を、苦難を通して完全とされたのは、彼に相応しいことであった』。(ヘブライ2:10・14)

そのため、キリストは復活後に霊の体をもって『獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝え』たのであり、けっして死者に福音を伝えたのではありません。(ペテロ第一3:19)
悪魔の誘惑に従った堕天使、つまり罪の道に入ってもはや行動を抑制された状態に入った悪霊らの処置が、キリストの完全な義の犠牲によって確定したことが告げられたとみるべきであることは明らかです。

そこでキリスト自身の最大の功績が、その犠牲の死に在ることはあまりにも明白で、以後キリストによって創造の神が、すべての創造物にとって真実に神とされたことを意味します。
キリストの忠節な死によって、神YHWHは最大で完全な賛美を受け、創造界全体から尊崇されるべき方であることが立証されたのです。
対してキリストの復活は、神のキリストの忠節への応答であり、ここに創造者と被造物の完璧な絆が完成されることになりました。(詩篇16:10)

最後の晩餐のキリストがアヴィヴ、またはニサン14日の伝統である『過越し』を更新する仕方で『主の晩餐』の定期儀礼を命じられたのであれば、それは明らかに「復活」ではなく、「犠牲の死」の意義に基くものであり、出エジプトの晩に於ける子羊の犠牲を象徴しているのです。実際、キリスト・イエスがご自分の復活を記念するよう聖書には命じられた形跡もありません。しかも復活の日付はニサン16日になってしまい、出エジプトの子羊との関係を失わせてしまいます。

この点では、本来のニサン14日は聖書の中に明確に刻まれているのに、後のユダヤ教徒には15日とされ、キリスト教徒には16日にずらされて来たのです。これは何を意味するのでしょうか。
つまり、ニサン14日は今日に於いても聖なるものとされるために、それぞれの誤謬から取分けられているということでしょう。

終末にニサン14日の晩餐を守る人々がいるとすれば、それは『世の罪を取り去る神の子羊』の「死」が如何に尊く崇高なものであったのか、その意義を深くわきまえているに違いありません。それは「忠節な愛」によるキリストの勝利の日となったからです。
他方で、キリスト・イエスを否定して亡き者としたユダヤ教徒が今更祭りの日付けを15日から変更もできず、めでたい復活の慶事にしてしまったキリスト教会が「復活祭」を変えることもできるでしょうか。

また、キリストの復活ではなく『死の記念』は、やがて到来する終末での『この世』という対型的エジプトからの解放をもたらすものとなるほどの、強大なポテンシャルを秘めた定期儀礼としてなお有効であり、将来のそのとき「この世」の隷属からの人類の解放がなお待たれていることを聖書そのものが示しているのです。この崇高な目的には、世の権力や民愚と妥協した宗教の関われるものにはならないでしょう。

その時の世には、エジプトに十の災いが下されたように、多くの凶兆となる災厄がもたらされることを聖書最終巻である黙示録が示唆しています。
そこでは、海が血となり、水は飲めないほど苦くされ、カエルのような悪い霊が現れ、人を刺すイナゴが現れては空気を暗くしてしまう場面などが含まれています。これらは出エジプトの故事を前表にして、人々が「この世」の拘束から逃れ出る時期について暗示を与えるものとなっていることでしょう。

このようにモーセの古代の事象は、キリストを通して終末にまで影響を及ぼすことが神の意図であることを新旧の聖書が明らかにしており、しかもキリストが予告されたように『主の晩餐』が、終末のキリストの『到来する時にまで及ぶ』との言葉が未だ成就していない以上、今日の我々は、劇の幕間に居て、次の場面の始まるのを待つかのような状態にあります。神が次なる一歩を踏み出される時、出エジプトの前夜であり、キリストのエルサレム出立の前夜ともなったアヴィヴ(ニサン)14日は、三度目に特筆すべき日となることでしょう。

それでも、現代に信仰を持つ人々は、無酵母パンと赤葡萄酒を用いた晩餐の席を、ユダヤ暦のニサン月14日に相当する晩に本来あるべき姿に戻し、『主の晩餐』として記念することができ、そうして出エジプトの偉業とキリストの見事な忠節な愛とに崇敬を表すことができるのです。⇒ 主の晩餐とは何か

その聖なる夜は、今日のユダヤ教徒が「過越しの祭り」[ハグ ハ ペサハ ] を行う前夜に相当しますので、ユダヤ人の暦や毎年の祭日からそれを行うべき日を知ることができます。この日付については、イエスがユダヤ教の祭事との関連で死を遂げられたのですから、その日付の決定は天文学で割り出す性質のものではありません。第二世紀、エフェソスのエクレシアの教え手であったポリュクラテスは、その原始キリスト教時代には、ユダヤの人々の祭礼に合わせて『主の晩餐』を行っていたことをローマへの手紙に書いています。(教会史V:24)

ですが、キリストの時代が近付く中で、バビロン捕囚後のユダヤ教徒はいつの間にかニサン14日ではなく、翌15日に「過越し」を行うように変化していました。(ヨハネ19:14)
しかし、「ユダヤ教徒の過越し」がニサン15日であるからと、聖書に明確な14日を無視してよいわけもありません。
むしろ、その一日のずれが生じていたために、彼らユダヤの祭司長派がその前日の14日に出エジプトの子羊に同じくイエスを屠る運びとなったのであり、彼らがもし14日から祭りを始めていれば、祭りの最中に死刑を行えないユダヤ体制は、イエスの処刑を14日に行うことが出来なかったのです。
今日までイスラエルではこの一日の差を残したまま『過ぎ越し』が続いていることは、ユダヤ教徒が紛れもなく、ニサン14日の金曜日にイエスを出エジプトの子羊のように処刑させたことの現代に至るまでの証拠となっているのであり、これは動かし難い事実です。

それにしても、死に至るまでものキリストの偉大な意志と忠節な働きとを「復活の祝い」に貶めてしまって良いでしょうか? また、悠久の時にわたる神の業の偉大さに無関心に過ごして良いものでしょうか。
キリストは、アブラハムにとってのイサクのように、神にとっての『独り子』であられ、また、『世の罪を取り去る神の子羊』であることは、新旧の聖書に深く彫琢された真実であるのです。

古代にエジプトを後にしたイスラエルは、子羊の犠牲によって苦役から解放され、神との契約に入ってゆきましたが、キリストの犠牲は『新しい契約』を存在させ、血統によらない「真実のイスラエル」を登場させるもとなります。

これに関連して、出エジプトの子羊の血が、イスラエルの十三の部族を十二部族とする働きを果たす時が、モーセに率いられ『約束の地』を目指して荒野を進む中に到来しようとしていました。
この一部族の取り去りもまた、神の深慮遠謀によるものであることが徐々に明らかになってゆくのです。


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