見出し画像

神をも圧倒するイスラエル

アブラハムの裔イサクはやがてふたりの息子を得ます。
それは双子で、先に胎を出た兄をエサウ、弟はヤコヴと名付けられました。ふたりは対照的な性格で、狩猟を好むエサウは「アブラハムの裔」を継ぐことに無頓着でしたが、その価値を認め家に居ることの多いヤコヴはそれを自分のものにしたいと願っていました。ヤコヴがちょうど赤豆を煮ていたところに猟から疲れて戻った双子の兄のエサウは、ヤコヴの赤い煮ものを欲しがります。これに対してヤコヴは「長子の権」を譲るようにと言うと、エサウは幾らかの躊躇もせず、ただ空腹なばかりに『長子の権なぞ何になる』と、それをヤコヴにくれてやると誓っては煮豆を貪るほどにアブラハムからの遺産を軽視したものでした。


後代、キリストの使徒パウロはこの事柄を引き合いに出し、『エサウのように、神聖な物事を軽視するようであってはいけない』と訓戒しています。
その「長子の権」はアブラハムへの神からの契約や約束、そして『女の裔』を継ぐ家系を含んでいましたが、エサウはそれを軽んじ、逆にヤコヴはその権を是非にも自分のものにしたいと日頃から切に願い続けます。その動機には神からの「アブラハムのへの約束」に高い価値を感じてのことであったでしょう。(ヘブライ12:16-17)

さて、エサウはアブラハムへの神の命令である『カナン人から妻を娶ってはならない』との戒めに無頓着で、カナン系ヒッタイト人からの二人の妻を得ます。二人の妻を娶るのは当時に習慣となっており、特に遊牧民に見られる特徴でありました。アブラハムの父に当たるテラハも二人の妻が共に生活しており、そこからアブラハムとサラとが生まれていたので、二人が『兄と妹』と言ったのは確かにその通りでした。

しかし、エサウのカナン人の二人の妻の素行は父イサクの頭痛の種となっていました。そこでイサクは『ヤコヴまでもがヒッタイトから妻を得た日にはどうなろう』と気をもんでいたのです。
それには鈍感なエサウも気付くところとなったので、彼はアブラハムの嫡流から退けられていたイシュマエルの家の娘からも妻を得るのでした。

やがてイサクは年老いて視力が衰えていたので、長子の権をエサウに授ける時となると、リベカは一計を巡らしてイサクに毛衣もまとわせて毛深いエサウに変装させたうえで、エサウに代わって長子の権を与えさせてしまいます。
その直後にその事を知ったエサウは激怒して、ヤコヴを殺めようとするのでした。この切羽詰まったところで、ヤコヴの母リベカは自分の里であるユーフラテス側の対岸にあるハラン方面のパダン・アラムに、実家を継いでいるラバンの許に退避させます。

しかし、それはアブラハムの家督を継いだ者としては相応しい事ではありません。アブラハムはユーフラテスを二度と渡らぬ覚悟を胸に秘めて約束の地に入ったのであり、イサクのためにハランの実家から嫁を迎えるにも、自分は出向かなかったのです。
それでもエサウの殺意に直面したヤコヴは、相続するべき地を後にするほかなく、父イサクもそうするようにと言うのでした。

ベエルシェバから北に逃れる途中で、神は彼に夢を見させます。
石を枕にして眠るヤコヴは天から梯子が降ろされ、天使らが上ったり下りたりする夢を見るのでした。しかも、その上方には神がおわし、『わたしはアブラハム、イサクの神である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。あなたの子孫は地の塵のように多くなって、西、東、北、南に広ろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福を受けるであろう』と言われます。(創世記28:13-14)

つまり、アブラハムの家督を継ぐのはエサウではなく、ヤコヴであることが明らかにされます。それは心細くもだた一人故郷を後に旅に出る彼への神からの餞別であり、神は『わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行う』とも言われます。
起き上がった彼は、その石を立ててその土地をベエト・エル「神の家」と呼ぶようになり、この当時無人のベテルは、後にエルサレムにもほど近い重要な街となってゆきます。

こうして、母の実家への逃避するヤコヴですが、それは同時にカナン人の妻を娶らず、アブラハムに神が命じられたように、アブラハムの父テラハの家系の親戚筋にあるラバンの家から自分の妻たちを得ることにもなるのでした。それはヤコヴの父イサクも同じく父の実家から妻リベカを娶ったのと同じです。

ヤコヴがこのように神聖な事柄を自分のものにしたいという願いの強さは、後に天使と格闘するほどであったところにも表れました。
ある晩、天使のひとりが誰かを祝福するために行こうとするところをヤコヴは強いて留めます。
『まず、わたしを祝福しないうちは行かせません』こう言ってヤコヴはその天使と夜中から揉み合いになり、なんと夜が明けるまでに及びました。
もちろん、天使が人間に過ぎないヤコヴひとりを退けられないわけもないのですが、そこで天使は「わたしを行かせよ」と言いつつ敢えてヤコヴにされるがままになっていたというべきでしょう。

ヤコヴが双子の兄のかかとを掴んで生まれ、成長しては兄とは対照的に家督を継ぐことへの熱心を示した彼は、その夜、近くにほかならぬ兄の宿営が近いことを知っていましたから、その天使があるいはエサウの方に行ってしまうことだけは許せなかったことでしょう。その彼の格闘を長時間許した天使は、彼の価値観がどこまで本物であるかが試していたということであり、そのあまりの執拗さの結果はその明け方に明らかになります。

しかし、ついにさすがの天使も彼の示すいつ果てるともない執拗さには堪らず、ついにヤコヴの股関節を外して彼の追求から逃れますが、『あなたはこれからはイスラエルと名乗りなさい、神と争って圧倒したですから』と語り、こうしてヤコヴは誰よりも祝福を望むものとして『女の裔』をもたらす家系に連なるのですが、それは母の胎から先に出ようとするエサウのかかととを掴んでまで生まれ出たところに象徴される彼の性質によるものと言えます。「イスラエル」とは「神と争うもの」の意味ですが、それは世界覇権を目論んだニムロデのように反抗するのではなく、むしろ逆であって、ヤコヴが見せた執拗さのままに、神の善を渇望するところにあります。
そこで「イスラエル」とは、アブラハムの約束を高く評価してそれを追い求めた結果、天から与えられた誇るべき名であるのです。

そのように神との関わりを求めて求めて求め抜くところは、キリストの例え話にある真珠商人のようで、価高いものの価値をわきまえるべきことを教えるものと言えるでしょう。実際、神の人類救出の手立ては、人間の努力の及ぶものではないのであり、まったく願い求めるべきものだからです。

つまり「イスラエル」には、神の祝福をこの上なく渇望する者としての意味があると同時に、それゆえにもアブラハムへの『地のあらゆる民族が彼の裔によって祝福を得る』との神の約束を受け継ぐにふさわしく、また神の格別な民と見做されるべき責務もあることになります。それをどうでも良いかのように扱う者、エサウのようであってはならないのです。

そこで神をさえ圧倒するほどに、祖父からの相続物である神との関係や祝福を願い求めたヤコヴは、「イスラエル」と呼ばれてそれを受け継ぐことにふさわしく、エサウは先に母の胎から引き出されたものの、あの赤豆の件から「エドム」(赤い)人の祖となってゆきます。エサウの子孫は死海の南に住む民族となり、後にイスラエルに影響を与える一民族となります。

後にヤコヴは、カランの親戚ナホルの家の舅の罠にはまった格好でふたりの妻を娶ることになり、その妻たちの争いのために、そのふたりの下女からも子らを得て、全部で十二人の男子と他に娘も得ることになります。

正妻のはずのラケルはやっとに二人の男子を生みますが、上の息子のヨセフには、なぜか夢で見たことの意味を解いて預言するような性質がありました。しかし、その内容が自分の優位性を語るもので、実際に年少であっても彼は正妻の長子でしたから、他の年上の兄弟たちから疎まれエジプトに売られてしまいます。兄弟たちは、父のヤコヴにはヨセフが野獣に襲われたことにして山羊の血に浸しておいた彼の外衣を見せて欺くことまでします。

それでもヨセフの夢解きの才能は彼をエジプトの奴隷身分から救うことになります。神から与えられていたその能力のためにファラオの目に留まり、その夢を解いて、エジプトに臨む七年の豊作と続く七年の飢饉が来ることを知らせます。しかもヨセフ自身は賢くもあり、七年の豊作の間に穀物をファラオの下に蓄えておき、続く飢饉を乗り切るという政策を提案したところ、その予見と賢さを評価したファラオによってエジプトの宰相されるのでした。

そして、やはり大きな飢饉が臨んだのでヨセフの兄たちは食料を求めて蓄えのあったエジプトへ向かいます。そして、それがヨセフとも知らず宰相に食料の懇願するのでした。こうしてこの件により、天幕暮らしのヤコブの一族がエジプトの肥沃な土地に落ち付いて定住生活を始め、一家が一つの国民へと成長する道が開かれることになるのでした。

はじめは自分を隊商に売り払った兄弟たちを警戒するヨセフでしたが、兄たちが兄弟の互いや親を心から大切にしていることを知ります。特に四番目の兄ユダなどはヨセフの実の弟で最年少のベニヤミンの身代わりに命を懸けることさえ厭いません。
兄たちが父ヤコヴと実の弟ベニヤミンを本心から大切にしている姿を確認し、ついにヨセフは彼らを許して自分の身を明かします。
自らの素性を明かすエジプトの宰相を見る兄らは、驚きながらもかつてのヨセフへの仕打ちを心から悔い、父ヤコヴの様子を尋ねるヨセフと共に号泣しながら和解するのでした。

こうしてヤコヴの一族七十人とその一行は、ファラオの招待の下にエジプトのナイル川河口の肥沃なデルタ地方に移住し、エジプト人から優遇されて過ごすことになりました。
やがてエジプトの地でヤコヴは高齢に達し、その死を悟って自分の十二人の息子の名を一人一人呼んで祝福します、それに加えて正妻長子のヨセフには格別にその二人の息子をも祝福します。正妻の長男には二倍の受け分を与えるというヘブライの習慣がそこに見えます。

ヤコヴの男の子らは、ルベン、シメオン、レヴィ、ユダ、ゼブルン、イッサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、ヨセフ、ベニヤミンの十二人で、ヤコヴはヨセフの子らのうちの二人も「自分のもの」として取り分けます。それがマナセとエフライムでした。
こうして、これらの十二人の子らと二人の孫とが後のイスラエル十二部族を形作ることになります。彼らはそれぞれの子らの父祖となり、ヤコヴの時には14人が祝福されていますが、ヨセフの部族は二人の息子に継がれるので、実質イスラエルには十三の部族が出来上がってゆきます。
後にはひとつの部族だけ特別な役割を負う目的を持って神に取り去られイスラエルから除かれるので、イスラエルは後に十二部族となりますが、これには深い意味が与えられることになります。その特別な一部族が三男レヴィの部族となるのです。

このエジプトで、ヤコヴの子孫は急速な勢いで増えてゆき、イスラエルは民族として顕著になり、アブラハムが多くの子孫を得るという神の契約は実を結び始めます。


それからしばらくイスラエルはエジプトで優遇されていたのですが、やがて時代が進むうちにエジプトの王朝が換わってしまいます。
新たなファラオの下、それまでのイスラエルの立場はまったく失われ、その後は奴隷にされてしまい、日々の苦役がのし掛かるようになりました。
そのうえイスラエルの増える勢いを憂慮したファラオは、イスラエル人の男児は生まれたらすぐに殺すよう産婆たちに命じてもいたのです。

それでも、この産婆たちは普段からその通りにしなかったので、その当時、レヴィ族のある女性も男子を無事に出産しました。
その子をエジプト人から隠し続けて三ヶ月となったとき、遂にそれ以上匿えなくなってしまいます。

そこで母親は、篭にタールを塗ってからその赤子を包んで中に入れ、ワニやカバもいるナイル川に流したのでした。その子の姉のミリアムは篭の流れる先を追ってゆきます。すると篭は導かれるかのように水浴びをしているファラオの娘のところに流れ着き、遂に王女の拾うところとなりました。
ミリアムは機転を利かせて、この子のためにヘブライ人の乳母を連れて来ましょうかと王女に申し出ます。そうしてこの姉は抜け目なく自分の母親を連れてくるのでした。

この男児は、水から引き出されたので『モーセ』(引き出す)と名づけられ、やがてエジプト王家の者として宮廷で成長することになります。
モーセは成長して後、自分の民イスラエルの奴隷生活を憂うようになり、あるイスラエル人を過酷に扱っていたエジプトの官吏を殺めてしまいます。

処罰を免れるために彼はエジプトから逃亡せざるを得ず、シナイ半島の鉱山への道を辿ってホレブ山の近くの荒涼としたミディアンの地に住むベトウィンの祭司エテロの下に留まります。その民族はケニ人と呼ばれますが、出自は聖書に明らかではありません。しかし、この民族は後にイスラエルさえ模範とするべき人々を生み出すことになります。

そこでモーセはエテロの気に入られるところとなり、エジプトを忘れ共に牧畜を行いながらその家の長女を娶り、やがて子らにも恵まれ齢八十にも達するに及び、もはやそこで生涯を終えるかに見えていました。

しかし、その老人モーセに神が現れます。
シナイのホレブの峰の近くで一本の灌木が燃えているのを彼は目にしたのですが、しばらくしてもその木が燃え尽きないのを不審に思って近づいてゆくと
『わたしはアブラハム、イサク、ヤコヴの神である』との声がして、そこは聖なる地であるからとモーセはサンダルを脱ぐようにと命じられます。

それからその声は続けて
『わたしはエジプトでのわたしの民の苦しみを見た。わたしはエジプトに下って彼らを救い出し、その地から携え出して、広く良い土地に、乳と蜜の流れる地に導こうとしている』
『あなたをファラオの許に遣わそう、あなたはわたしの民、イスラエルをエジプトから導き出すのだ』

狼狽するモーセは、自分の口下手を理由にその任を降りようとしますが、神は話し手として彼の兄アロンをモーセに付けると言われます。
加えて、どのようにして自分の語る言葉を信じてもらえるのかと質問すると、神は彼の杖が蛇に変わる奇蹟の徴や、らい病を操ることが出来るようにします。

更にモーセは、自分を遣わした神の名を何と言えばよいかと尋ねます。古代の神々にはそれぞれの名があり、その名によって識別される必要があったのです。すると神は自らの名を示します。[יהוה]とヘブライ語で記されるその名を何と読むか、この発音はキリスト後に失われてしまっており、不思議なことに、今日この発音を正確に知る人は絶えておりません。
ただ、子音ヘブライ文字の四つを英字に写すと"YHWH"となります。今日のユダヤ教徒は、この読むことのできなくなった神の御名ではあっても、「ハ シェム ハ メフォラーシュ」と呼んでこの上なく神聖視しています。

これを「イェホヴァ」(ヱホバ)あるいは「ヤハウェ」と読まれることが多い聖書の神の名前ではありますが、これらの発音は便宜上付けられたもので、「イェホヴァ」はキリスト教の時代になってから、ユダヤ人が仮に「主」(アドナイ)と読ませるために付けたルビ (ニクード)をそのまま読んだものであり、11世紀以前には見られず、もちろん正しい名前ではありません。
また「ヤハウェ」は19世紀になってからドイツのチュービンゲン学派の学者が提唱しはじめたもので、どちらも確証がないことでは同じです。

それでも本当の発音は、将来に決定的に明かされることになるでしょう。
キリスト・イエスに関して多くの預言を成就させた詩篇の第22にはこのようにあります。
『わたしはあなたの御名を兄弟たちに告げ知らせ、会衆の中であなたを誉め讃えるでしょう』。(詩篇22:22)
この句に合致してイエスは最後の夜の祈りでこう語ります。
『わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました』。(ヨハネ17:6)

当時、ユダヤ人は神殿域以外で神の名を発音することを禁じる規則を設けていたのです。聖域に入ることのできるユダヤ教徒にだけ、年に一日だけその名を耳にすることができたのですが、キリストを葬り去った世代が生きている内に、なんと神殿がまったく破壊されてしまい、ユダヤ教徒は神の御名を称える場を失ってしまったのでした。
やがて、御名を発音する機会を失ったユダヤ教徒は、発音を忘れてしまい、以後は神聖四文字[ יהוה ]を目にすると、それを畏れかしこみ「アドナイ」(主)と読むばかりになりました。
しかし、この神名は再び人々に呼び求められるべき時が来ることを聖書は明かしています。

預言書はこの名がこの世の終わる時期に関わることを告げてこう記します。
『その日、あなたがたは言う、「YHWHに感謝せよ。その御名を呼べ。その御業を諸々の民の中に伝えよ。その御名の崇めるべきことを語り告げよ』。(イザヤ12:4)
『あなたを知らない諸国民の上に。あなたの御名を呼ぶことをしない諸民族の上にあなたの憤りを注いでください』。(エレミヤ10:5)

終末の御名の知らせが何度も繰り返されている以上、いまだ発音が分からないという神秘にこそ相当に重い意味があるのでしょう。(イザヤ2:11・30:24エレミヤ3:17/詩篇50:15)
この神名は、なお将来にも明らかにされてモーセの時のように重大な意味を持つことになることは『主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に月は血に変るであろう。そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われる』との新約聖書でも繰り返されるところにも示唆されています。(使徒2:21/エレミヤ10:25)

本来、創造の神であれば唯一の存在に違いないのですが、こうして固有名を持つことで、エジプトの神々と明確に区別されることになっただけでなく、その後もカナンや周辺の地の神々に対しても、力ある際立った神であることを示し続ける栄光ある名となりました。この御名の発音はキリスト後から今日まで秘められていますが、その名を告げ知らせるキリストによって終末の世はその名を再び聞くことになるでしょう。

ともあれ、アブラハムの子孫である民イスラエルを救うため、神の権能と御名とを携え準備を持ったモーセは、四十年も離れていたエジプトに兄アロンと途中で落ち合って向かいます。そこではどのような反応が起こるでしょうか。

 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?