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タラントとミナの例え 賜物の恐怖

ミナとタラントの例え
(ルカ19:11-27/マタイ25:13-30)

時を経た後の主人の帰還と、仕える僕たちとの間の清算というこの内容は、キリストが去った後に、弟子たちに何かの「成果」が求められることを知らせるものですが、下僕の一人の仕事の放棄が特に際立っています。
しかし、この例えの意味についてキリスト教界で明解にまた意義深く知られているということもありません。

貨幣である『タラント』が「タレント」の語源を共にすることから、「クリスチャン」方が、才能や資産を用いて「イエス様」にお仕えすることがその教訓だと教えられるか、怠惰であってはいけないとか、または失敗を恐れないことを励ましているなど、これらの例えを一般的な生活に当てはめることがその意味であるとされるのがほとんどでしょう。
そう思うのは自由ながら、それではこれらの例えに含まれる非常に重い警告を聞き逃すことになるでしょう。それは確かに「警告」と言えます。

これらの例えで注目されるべき主人公は、帰ってきた主人でも、誉められる僕でもなく、何もしなかった一人の下僕であることはあまりにも明らかだからであり、その下僕が受ける酬いは『外の闇に放り出され、歯がみして泣き悲しむ』からには、非常に悪い結末でありますから、その務めの放棄が重罪であることはまったく明らかです。

さらに、これらの例えには時という要素もあり、『遠く旅に出た』キリストが戻られる時、つまりキリストの再臨の起る「この世の終り」、その類例のない時期での弟子とキリストとの関わりを例えていると捉えるべき理由が、これらの例え話の言葉の随所に込められています。


◆権力者また大商人に例えられるキリスト

ルカ福音書にある「ミナの例え」とマタイ福音書の「タラントの例え」とは、多くの共通性が有り、幾らかの違いを持ちながらも、主旨は同じものと言うことができるほど似ており、どちらも財産をそれぞれの奴隷に託して旅に出た主人が帰宅して、その成果を確認するという筋立てを持っています。

まずルカでは、キリスト受難の最後の旅の中、エルサレムに近い低地のオアシス都市エリコの収税人ザアカイの家の場面でこれが語られ、ついでマタイは、オリーヴ山で語られたイエスの終末預言の中に含んでこの例えを記していますから、語られた時期は互いに一週間ほどの違いばかりです。

さて、ご自分の死が近いことを悟ったイエスは、最後のエルサレムへの旅にあって弟子らの先頭を進み、前年の仮小屋の祭りのときに人目を避けて山地の道を通るようにしてではなく、堂々とヨルダン川沿いの旅人の多い平地に進路を取り、決然たる面持ちを見せていました。そのため、弟子たちには王国の実現が近いと思えていたのでしょう。ろばに乗ってエルサレムに登城する姿はソロモン王の故事に倣うものでありましたから、ますますイエスが王を称する日が来たと思えたとしても無理からぬことであったでしょう。

しかし、イエスは弟子たちにご自分のエルサレムでの受難の死と三日目の復活を語るのですが、彼らはそれを理解できなかったと福音書は記していますし、むしろこのエルサレムの旅によって『神の王国がたちまちに出現する』ことさえ期待していたとも明かされてもいるのでした。そのために十二人の中ではキリストの王国で誰が際立った地位に就けるかが気になったのでしょう。何度も誰が偉いかを巡って言い争っています。(マルコ10:32/ルカ19:11)

しかし、イエスはご自分の地上からの旅立ちが近いことから、弟子たちを不在となる時期に備えさせるための例えを何度か繰り返し語られています。以下に見るように、これらの例え話はやはり繰り返されるべき程に、キリストが戻られ清算する時まで働いているべき弟子らへの相当に重い役割と警告とが含まれていたのです。


◆二つの例え話の相違点

双方の例えの概略はほぼ同じなので、まず異なるところを挙げると
預けられた財産のミナとタラントの価値ですが、ルカの記したミナの例えについては、1ミナが今日の日給で計算すると80万円ほどになります。ミナの場合、主人は10人の奴隷に1ミナずつを分配していますから、主人の託した総額は10ミナで800万円ほどになり、金額として然程のものではなく、ミナの例えでは商人ではない主人の王としての側面が描かれているのでしょう。

同じく、元はカペルナウムの収税所に勤務していた使徒マタイの福音書にある1タラントであれば約4800万円、奴隷には5タラント、2タラント、1タラントと同額ではなく、委ねる奴隷の力量に応じて分配されたかのような違いがあります。合計8タラントはおよそ3億4千8百万円となりますが、これは大商人(エンポロス)が支店長に決算報告をさせる程の収支規模を見せます。
しかし、どちらの例えでも肝心なのは額の高さよりは託された奴隷の働きであるところは『一万タラント』、つまり銀換算でも6000万デナリという天文学的金額を登場させ、人の罪の赦しの大きさを描く「許さなかった僕」の例えとは異なっています。

ルカの記すミナの例えでは、この主人は王権を獲得するために旅に出るので、こちらの主人は商人ではなく為政者ですが、主人と奴隷たちのほかに、主人の王権獲得を望まない『市民たち』という第三の者らが幾らか顔を出し、それがミナの例えの背景を広げる役割を果たしています。

王権と言えば、この時代のユダヤを治めるヘロデ家の息子たちが王にされるには自動的な継承にはなりませんでした。ヘロデ王家はローマの傀儡政権でありましたから、ローマ皇帝の裁可を仰ぎ、任命を受ける必要がありました。場合によってはローマに長く逗留させられることになります。
それでも上手くして皇帝から王権許諾を授かるのに成功したからと言って、そのまま王位に就けるとは限りません。
信任状や認証指輪などを持って帰国しても、対立勢力を自分でねじ伏せ、王位に就くことを実力で勝ち取る必要があったのです。

そこで、ミナの例えに登場する『市民たち』は、この話にリアリティを添えるものであり、この貴族が王位獲得に旅立つと、それを後追いして『この人が王に就くことを望みません』と上位者に伝えて来ているのです。そこで王権を得て帰国したこの主人は、反対した市民を粛清しているところが描かれています。

例えの当時も、イエスがベツレヘムに誕生された後のこと、ヘロデ大王が死去すると、その息子たちの間での王位継承を巡る駆け引きがローマを舞台に皇帝アウグストゥスの前で行われる事となりました。
長男アルケラオスはユダヤ人虐殺を行っていたので、ユダヤ人らはヘロデ大王の王権を横暴なアルケラオスのような息子らに継承させるよりは、むしろローマの直轄領としてもらい、ある程度の自治を許してもらうことを望んでローマに使節を送ってもいたのです。

ですから、ミナの例えで、主人が王となることを望まないとする市民の請願は、実際にユダヤ人が三十年ほど前に行っていたところで、その陳情のため、大王の長男アルケラオスの支配領域は制限され、他の兄弟たちと支配地域を分け合わなければならない結果となっていました。(ルカ3:1)

これを恨んだアルケラオスはユダヤに帰国すると、自分に反対した者たちを粛清していますので、このミナの例え話を聴いた使徒たちは、王権を確かなものとして帰還するであろうイエスに反対する者らがいること、また、その者たちが処刑されるという事態を含めて、その帰還が厳しい裁きの時となることを感じ取ったでしょう。

まさしくミナの例えでは、キリスト最後のエルサレムへの旅で『弟子たちが、神の王国が今やたちまちに現れると考えていたために』という背景がはじめに言い添えられているのに比べ、タラントの例えは儲けの清算の時の不明性が語られ、イエスの終末預言として、ご自身の再臨される「終末」が不意に起るとの警告の色合いを強めています。

他方でマタイの記すタラントの例えでは、怠惰な奴隷の処遇については『外の闇に投げ出される』つまりは失業して生計の糧を失うということで終わっており、主人は王権を得る権力者というよりは商人のような雰囲気に中で例えが語られています。

それでもタラントの例えにもある『泣き悲しみ、歯軋りする』という怠惰な奴隷への酬いの表現は『受け分を偽善者らと同じくさせる』という同じく24章51節にある、主人を待たずに宴会を始める邪悪な奴隷の例えと共通しているので、タラントの例えの結末もミナの奴隷と同じく、やはり粛清されてしまうことを意味する可能性は相当に高いものがあります。

それを裏付けるのは、これらの例えより以前に語られたマタイ13章にある一連の例え話の中で繰り返される『義人たちの中から悪人をより分ける』というテーマを持つ別の幾つかの例えの結末でも、悪人は火の中に投げ入れられ『彼らは泣き悲しみ、歯軋りする』と書かれているのですが、この原語本文はタラントの例えの結末の文章と一字一句同じで、さらに共通するのは、弟子の中から選別が行われ、相応しくない者が捨てられるという場面であることです。(マタイ13:50)

また、聖書中では火で焼くことは滅ぼしの象徴であり、それゆえにもユダヤ人が遺体の火葬を避けてきたところと一致していますので、タラントの例えの結末でも、ただ歯ぎしりするという以上の厳しい処罰が暗示されています。つまり、復活も望まれない『滅び』であり、『入ろうと努めながら入れない者は多い』とキリストが警告していた『王国に入る』格別な『聖なる者たち』の選別を指す可能性が出てきます。

その者たちは『新しい契約』に入り聖霊が注がれた『アブラハムの裔』、『キリストの共同相続人』のことで、単なる信徒ではなく『聖徒』のことであり、『初穂』となる「真実のイスラエル」に属する人々であり、ただキリスト教の信者ということではありません。それは聖書全巻に通暁するなら明らかなことです。(創世記22:18/ローマ8:14-17/ペテロ第一1:2)

この点で、これら二つの例えに幾らかの相違点があるとはいえ別のものではなく、契約に入った者らの状況を述べることに於いて、それぞれの意味の共通性を壊すものはなく、むしろ、各々の違いも「同じ事柄」について二つの観点からより詳しく描き出していると言えます。

それでは、これらの例えの共通する趣旨の意義を探ってゆきましょう。


◆奴隷は何を恐れたか

キリストの三年半にわたる公生涯、つまり祭司ゼカリヤの子ヨハネから水のバプテスマを受けられ、聖霊を注がれてキリストとしての活動を始められ、今や宣教の終わる時期を間近に控えたところで、これら二つの例えが語られたことは、例えの『主人』が、弟子らを残して去って行くイエスご自身を指していることは疑いようもないことです。
そして、これらの家の奴隷たちなのですが、イエスが天に帰られるとなれば、残される弟子たちを指すことも間違いないでしょう。

問題はミナやタラントという財産が何を表し、それを運用して儲ける事が何を意味するかです。それが分かれば、まったくそうしないで財産を隠しさえするという悪い下僕の行動が何を指しているのか、また、その動機も明らかになるはずです。

これらの例えの中で特に注目するべき登場人物は、順当に託された財産を増やした奴隷ではなく、何もしなかった怠惰な奴隷であることは明白です。
しかも、この奴隷は財産を両替商や銀行に預けて不労所得を得るということも行わず、つまり、儲けようという気持さえ見せなかったところは徹底していて、また異様でもあります。しかも、この奴隷は主人が利殖する意欲があることを知っているのです。
そのうえこの奴隷は、ミナの例えにある王位に就くことを拒んだ市民とほぼ変わらない態度で、それにしては逃げ出しもせず、清算のときに預かったままの金額を返そうとするのも普通ではありません。

ですから、これは「投資」という劇の表面を見せながら、別の何かを語っていることはよく察知できるところです。

この二つの例えについて、よく聞く説明といえば、弟子たちに勤勉であることが求められているので、敬虔な活動に熱心でありましょうとか、5タラント、2タラントなど、主は信者の一人一人の能力をご存じで、無理は要求されていないのだから、教会で求められる役割や伝道の務めは果たしましょうと言ったところです。

ですが、この「怠惰な奴隷」の言い分に耳を傾けるなら、そうした解釈とは不釣り合いな答えを主人に語っています。
ミナでは『あなた様が恐ろしかった』、タラントでは『わたしは恐ろしくなった』と答えているのです。
いや、ご主人さまが恐ろしかったなら、却って儲けに精を出したのではないでしょうか? これはますます実際の商売とは異なる事柄を意味するものです。

そこで、奴隷たちの「恐れ」とは、「置かれる状況からくる恐怖」という可能性があります。片や主人の取り立てがあって恐れているのですが、それが簡単なことであれば利殖をしないことはまずありません。銀行や両替商に預けておくことは元本を減らすリスクもなく、何かをする必要もない簡単なことではないでしょうか。そして彼らが預かった財産であるミナやタラントが実は何を表していたのかも明らかにされる必要があります。

主人の言う通り、怠惰な奴隷は努力しないでも済むことさえしていないのです。ミナは布に包んだままで、タラントは土中に埋めていたというのですから、自分がそれを託されたことさえ人に知られたくなかったと言うほかありません。その恐れは主人が『蒔かないところで刈り取られる苛酷な方』であるとしているところに理解の鍵があるようです。つまり、この下僕が恐くなったのは商売をする環境であって、主人の取り立ての厳しさでもなければ、商売で失敗することの恐れでもありません。

その主人に『蒔かないところで刈り取られる』とは、主人の居ないところ、つまりキリストが去っていた間にも、かつて主人が蒔いたような儲けを奴隷たちに要求するということになり、それはキリストご自身がなさったような業の結果が求められるということになります。
確かにイエスは最後の晩餐の席でこのように語っています。
『わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからだ。』(ヨハネ14:12)

この観点から見ると、イエスが弟子たちに厳しいことを求める言葉が福音書のほかの場所にも散見されます。
幾つか挙げると、『自分の[十字架の]木を担いで、わたしの後に従わない者はわたしにふさわしくない。自分の魂を得る者はそれを失い、わたしのために自分の魂を失う者はそれを見出す』と言われますが、これは本当に厳しい言葉と言えましょう。(マタイ10:38-39)

また、『狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、入ろうとしても、入れない者は多い』『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、彼(イエス)は「あなたがたがどこから来た者なのかわたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ」と言うであろう』。(ルカ13:24.27)

こうした言葉は、いわゆる「ご利益信仰のクリスチャン」であれば本当に恐ろしい「イエス様」の一面を見てしまうようで、聖書には書かれていなかったことにしたいほどではないでしょうか。

ですが、このようにも言われています。『多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求される』。(ルカ12:48)
まさしく、キリストと共に天の王国から地を支配を行うよう招かれた格別な弟子らが、その支配の一部に預かるのであれば、支配される人々に勝って『多くを要求される』のは理に適ったことでしょう。

まさしく、ミナもタラントも一財産であるからこそ、それを委ねられた家の僕には、それ相応の技量が見込まれたのでありますが、同時に、儲けに成功した奴隷に『よくやった』とのねぎらいの言葉と共に『ごくわずかなことに』忠実だったと誉めているからには、それなりの責任が伴うものの、出来ない事の無理強いではないのです。

そこで、イエスが『預けていないものを取り立て、撒かないところで刈り取られる』その状況をどう捉えるか、つまりキリストが不在を終えて戻られるという事態の起こる時、また、王権を得て再来される時節、「終末」と呼ばれる特殊な時期に目を向ける理由が揃ってくるのです。


◆託される財産とは何か

ミナとタラントが語られた時期が、キリストの死と復活までを僅かにした春先の『過越しと無酵母パンの祭り』の直前であったことは、弟子たちに何が託されるかも明示されるべき時期でもあり、この時期の聖書記述から、これらの例えでのミナやタラントという財産が何を指していたのかを知る手掛かりを与えています。

ご自分の死を控えた主イエスは、最後の晩餐の席で、イエスの復活の後に彼らが受けることになる格別なものについてこう言われました。
『わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別の助け手を送り、それがいつまでもあなたがたと共にいるようにして下さるであろう。それは真理の霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。だが、あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共に居て、あなたがたの内に在るようになるのだから。』(ヨハネ14:16-17)

この『霊』は、キリスト復活の50日後に弟子たちに注がれたことを使徒言行録が記しています。
それらの霊は、まず『異言』という習ったこともない外国語を語る奇跡からはじめて弟子たちに神の印を与え始めました。
それに加えて、使徒ペテロにはイエスのような『癒し』の奇跡を行う権威が与えられ、多くのユダヤ人らが彼に癒してもらおうと、ペテロの影がかかることでさえ求めている様を、医師でもあったルカが記録しています。(使徒5:14)

これらの聖霊の奇跡は、神の業が地上を去ったイエスから弟子たちに移されたこと、また、神の是認がユダヤの律法体制からキリストの弟子たちに移されていたことの証しでもありました。ですからペテロは『イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊をみ父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです』と聖霊の奇跡を見て驚き入る外地から来ていたユダヤ人たちに信仰を促していたのです。(使徒2:33)

このように弟子たちに格別な神の霊である『聖霊』が注がれたのは、キリストの去った後のことでありましたから、使徒ヨハネはキリストの去る以前の時期について『イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊はまだ注がれていなかった』と書いています。(ヨハネ7:39)
つまり奇跡の賜物をもたらす『聖霊』は、キリストの犠牲が捧げられてはじめて注がれるようになったものであり、キリストの完全な義という根拠を直接に持つことでは、それ以前の神の霊の働きとは異なる格別の霊、『新しい契約』によってこそ授けられる『聖霊』であったというべきでしょう。実際パウロはそれを『霊の賜物』と呼んでいますが、それは確かに神からキリストを介して下された「高価な預かり物」といえます。(ヘブライ2:10)

ですが、彼らは聖霊を受けるとすぐに反対に直面しました。ユダヤ体制派の指導者たちは弟子たちを鞭打って脅し『もう、その名(イエス)によって語ってはならない』と命じます。聖霊による弟子たちの活動によって宗教家らの体制の威信が揺らいでしまうからです。(使徒5:30-33)
しかし、使徒たちを中心とした弟子たちは、そのような脅しに屈することなく祈りました。
『主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
どうか、御手を伸ばしあなたの僕イエスの名によって、病気の癒しが起り、印と不思議な業が行われますように」。
この祈りが終わると、弟子の皆が集まっていた場所が揺れ動き、皆が聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出すのであった』。(使徒4:29-31)
このように、キリストが地上を去ってから、弟子たちと旧来のユダヤ体制派との間には越えがたい対立が生じてゆきます。

そこで、弟子らに『聖霊』が臨んだために、キリストの業が継承された事にこの対立の原因があります。
主イエスの刑死後、『聖霊』が注がれる以前の弟子たちと言えば、『ユダヤ人らへの恐れのために扉にはかんぬきが差してあった』とあり、エルサレムの一角に隠れ住んでいた様が書かれています。(ヨハネ20:19)
しかし、地上を立つ以前にイエスはこう言われていました。
『聖霊があなたがたの上に来るときには、あなたがたは力を授かり、ユダヤとサマリアの全地でも、地の絶え果てるところまでもが、わたしの証人となるのです』。(使徒1:8)
ですから、『聖霊』というものが弟子たちにとってどれほど重要なものであったかがこれらの出来事からも明らかです。

『聖霊』の奇跡は神の印となって、信じる者と信じない者を分かち、そこに『裁き』が生じていました。つまり、奇跡の業は、それを見る人が信仰を働かせるか否かを試したのであり、そうして当時のユダヤ律法体制はキリストに前に試されたのです。そしてキリストの再臨を迎える終末には、世界が聖霊によって試されることにならないものでしょうか。

使徒ヨハネはこの点についてのイエスの言葉をこう記録しています。
『もし、ほかのだれもがしなかったような業を、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないで済んだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見た上で憎んだのである』。(ヨハネ15:24)

そこで『聖霊』についてイエスはこうも言われました。
『人が犯す罪や冒涜はどんなものでも赦されるが、聖霊に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない』。(マタイ12:31-32)

これほど重大な作用をもたらすものを授かった弟子らが、その貴重な授かり物についての責務を負うことは当然と言う以外にありません。
彼らは水のバプテスマを受けた後、聖霊のバプテスマをも受け『新しく生まれた』のであり、もはや地上に在ってさえアダムの命には生きず、キリストの復活した命の中に在って共に生きているという『キリストの兄弟たち』つまり真実のイスラエルの立場に『新しい契約』に招かれることを通して与っていたのです。その証を立てるのが『聖霊』であることをパウロは明言しています。(エフェソス1:13-14)

◆僕らは財産のために迫害の矢面に立つ

ミナとタラントの例えは、共に「主人の帰還での奴隷たちとの清算」を趣旨としていますから、これらの場面はキリストが世に対して再び戻られ臨在されるところを明らかに描いています。

イエスが地上から去った後の五旬節の時のような奇跡の業を与える『聖霊』というものを、キリスト教の初期以降、人類は目にしていません。キリスト教界には「黄金伝説」などの伝承にある「聖人伝」にその面影が残され、第四世紀にエウセビオスの著した「教会史」などの史料に、かつては奇跡を行う霊を持った人々が居た痕跡を知らせるばかりです。その人々は殉教者でもありました。

他方、福音書はイエスの語った終末預言をそれぞれに記載していて、揃って終わりの日には『王や高官の前に引き出され』聖霊によって語る弟子たちの姿が描かれているのです。

ですから、キリストが戻られてこの世を裁くときには、『聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない』とのイエスの言葉に重い意味が『終わりの日』に加わると考えるべき理由があります。(マタイ12:32)

その『終わりの日』にはキリストが自ら迫害を受けることはないでしょう。
それについては『二度目に来られるのは罪の(贖い)を離れての目的のためであり、救いを切に求める者たちのためなのです』とパウロも述べる通りで、もはやアダムの子孫を贖った以上、イエスが捧げた犠牲は人間の魂であったのですから、再び肉の弱さの内に到来する理由がありません。(ヘブライ9:28)
むしろ、イエスが次に世に来られるときには王権の保持者としての再来であり『臨御』であられるからです。それは『雲と共に来る』と語られたように、不可視で『稲妻が東から西へと煌めくような』ものだからです。キリストを見ない状態でこそ、人々は心にあるものを見せることになり、裁かれることでしょう。(マタイ24:27・30)

一方で、キリストは終末預言の中で、確かに聖霊を注がれる弟子たちが『王や高官の前に引き出され、彼ら(為政者)と諸国民に証しするために語る』ときが来ることを何度も予告されました。(マタイ10:18/マルコ13:9-10)
それは彼らではなく『聖霊が話すので、何と話そうかと準備しなくてよい』と言われ、またそれが『反対する者らが束になっても論駁できない』ほどの言葉になるとも言われました。(ルカ21:15)

その聖霊の言葉は世界の驚嘆を誘い、『天地が揺さぶられる』ほどの衝撃となることも旧約聖書を引用し、新約聖書も『語る方の言葉を聞くようにと促しています』。(ハガイ2:6-7/ヘブライ12:25)
その聖霊の言葉は世に大きな衝撃を与えるものらしく、そのことばに信仰を働かせる人々が現れることになることは、この聖句ばかりでなく、イエス自身の祈りの中で、『弟子たちだけでなく、彼らの言葉を聞いて信仰を持つ者たちについても、皆が一つになるように』と神に願い出ている言葉があるところにも示されています。これは聖霊注がれる弟子である『聖徒』と、彼らの聖霊の奇跡の言葉に信仰を持つ『信徒』とを表していることでしょう。(ヨハネ17:20/コリント第一1:2/ペテロ第一1:2)

そこで将来に聖霊を注がれる弟子たちは、キリストの受難を見ることも、直に模範を示されることもなく、聖霊を頼りにこの世と対峙することになりますから、 それは大いに勇気の要ることであるに違いありません。それは云わば『蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる』聖徒らには厳しいキリストの姿のようです。
そこで聖霊を注がれていながら、この世との厳しい対立を恐れてしまう弟子が出ることは充分に考えられることです。
やはり、主人の財産を活用しなかった奴隷は『怖くなって・・隠しておいた』と告白していますが、この動機はミナの例えでもタラントの例えでも同じです。

つまり、主人の財産を隠すとは、『聖霊の賜物』を持っていることさえ隠し、託された霊感の奇跡の言葉を語らないで、この世との緊張関係を避けることであると言えます。つまり、世からの矢面に立つことを避け、自分に奇跡を行う聖霊が注がれていることさえ知らせないという主人への不実さです。
しかし、彼らが注がれた聖霊で発言しなければ、その言葉の超自然性に信仰を懐く人々も現れず『刈り取る』ことも『集める』ことも無いに違いなく、それは主人の意向に反することは明らかです。やはりパウロの書簡から、聖霊によって語ることが注がれた本人によって制御されることが分かります、(コリント第一14:27-28)

そこで『怠惰な奴隷』が、自分が賜物を持っていることさえ押し黙って隠していたとすれば、帰還した主人に対して『これはあなたのものです』とただ返すだけとなり、銀行や両替商にさえ預けて幾らかでも主人の意向に沿うつもりもなかったことが明るみに出ます。

王権を承認されて帰還した主人が王となるときに、このような奴隷が新たな王を支持したと言えるでしょうか。それは無理な話です。新しい王が厳しい闘争を経て王権を樹立する中で、そのような奴隷はその後も信用のできない存在でしかありません。何時裏切るとも知れない者をどうして傍に置けたものでしょうか。
当然ながら、『聖霊』というほども貴重な財産を持つに値しない奴隷からは、それは取り上げられて他の者に与えられます。しかし、それだけで済むことではありません。

マタイのタラントの例えで、主人の帰還が思わぬ時となった怠惰な奴隷は『外の闇に投げ出され、歯がみして嘆き』、ルカのミナの例えでは『これらの(奴隷を含めた意味にもとれる)わたしが王になるのを望まなかった敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ』とあります。前述のように、どちらも主人との関わりから断たれ、反対者として括られ、その厳しい酬いを受けることになる以外にないでしょう。

こうしてミナとタラントの例えを概観すると、地上から去って行こうとしているキリストが、その後に『聖霊』を賜る弟子たちにこの世との対立関係に恐れて尻込みしない事を訓戒している姿が見えます。


◆増やすべき宝は何であったか

そして、主人が望んだ利殖が何を表していたかも以上の推論から見えてきます。イエスは受難の始まる直前のゲッセマネの祈りの中で後に残す弟子たちが邪悪な者らから守られることを願い出ました。
その言葉に続いて『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いします』と請願し、使徒たちをはじめとする聖霊注がれる『聖なる者たち』の言葉に信仰を働かせるであろう人々がいることを示しました。
これは、聖霊の言葉を聴くだけでなく、そこに神の言葉の価値を見出す人々が、終末の再臨の期間に現れることを知らせるものであり、その人々は聖霊の発言なくしては現れないでしょう。

ですから、主人が望む利殖とは聖徒らの活動によって信徒が収穫されることであり、これこそが遠い昔にアブラハムの裔が『地のあらゆる部族は自らを祝福する』という神の意志の実現となることでしょう。(創世記22:18)
この件は、聖書最終巻の黙示録でも繰り返され、イスラエルの十二部族が天に揃って後、『数えきれない大群衆』が現れ、仮小屋の祭りを祝うかのようにナツメヤシの葉を手に手に神と子羊に賛美を捧げる姿が描かれています。

仮小屋の祭りが収穫祭でもある以上、その収穫物が聖霊の言葉に信仰を働かせた人々であることは明らかです。これはミナやタラントの例え話の中の主人が望む利殖が何であるかを示す背景を提供するものです。それは是非とも増やされていなければなりません。その人々こそが『神の王国』の民となるからです。一方で聖徒たちは、キリストと共に天から支配する王となり、また祭司として地上の人々の罪の赦しのために働くことになるでしょう。これが神の偉大な意志であり、悠久の時に亘って進められてきた目的です。

そこで『あなたがたは自分にある勇気を放棄してはいけない。その勇気には大きな報いが伴っている』また『わたしたちは恐れ退いて滅びる者ではなく、信仰によって魂を保って者です』との態度がまず聖霊を受ける『聖なる者』たちに求められ、次いでキリストに従う者の誰にも求められていると言
えるでしょう。(ヘブル10:35・39)

終末に於けるこの利殖の進展を明かす預言がハガイ書にもあります。
『万軍のYHWHはこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、かわいた地とを揺さ振る。わたしはまた諸国民も揺さ振る。そすると諸国民の財宝が入って来て、わたしは栄光をこの神殿に満たすであろう』。(ハガイ2:6-7)
この句は、かつてモーセのときのシナイ山が激しく鳴動したように、神が終末に諸国民に衝撃を与えることを語っています。
これは、『終わりの日』での聖霊の言葉が『王や高官』という為政者ばかりでなく『諸国民』にも衝撃を与えることを述べていることでしょう。(マタイ10:17-18)
その振動の結果として、聖霊の言葉に信仰を働かせる『財宝』のような人々が、天界の『神殿』となるキリストと聖徒の許に集められるのです。
パウロもハガイの預言をヘブライ書簡に引用し、『揺さ振られるもの』つまり人間社会が除き去られることに注意を向けています。(ヘブライ12:26-29)
つまり、それは『この世の終わり』の時期に起こることであり、キリスト再臨の下に起こることでしょう。

ルカはその福音書の中で、聖霊の言葉に対しては『反対者が束になってかかってきても論駁ひとつできない』とのイエスの言葉を記録していますから、彼らによる聖霊の発言は、大きな驚きと共にあっという間に世界を駆け巡ることになるでしょう。わたしたちも終末にまで生き長らえて、その驚くべき言葉を聴くことになるのでしょうか。(ルカ21:14-15)

しかし、聖霊の言葉はこの世との対立を招くものでありますから、その言葉を信じ、それを語った聖徒たちに支持を表わす信徒もまた『この世』との緊張を逃れ得ないものであるに違いありません。

ですから、使徒らに語られたように、これらの例えは第一に聖霊を注がれる『すべての聖徒たち』への警告となる例え話ではあります。
しかし、主人への支持を表すという点では、終末の再臨の時期に彼らの言葉を聴いて信仰を抱く『信徒』であっても本来は同じことであるに違いないのです。(ヨハネ17:20-21)

つまり、主人が王座に就くことを願い、キリストの王権樹立に反対する市民のようにではなく、出来る限りを行うことによって支配権を得て帰還する方を支持し歓呼して迎える『市民』となるためです。(マタイ25:31-40)
なぜなら、『神の王国』が到来するときには、その王であるキリストを支持せず歓呼して迎えない者は、その『値高き真珠』に与る云われが無いからであり、その結末は『この世』と共に『打ち懲らされる』ことになるでしょう。(マタイ13:45)


この記事は、以下の書籍の中の一話を抜粋したものです。

電子版 Doc.216頁 ¥680(税込)
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キリストの例え話 第二集 解説18話
1 .幼子のようにならなければ
2 .二人か三人が集まるところには
3 .赦さなかった僕の例え
4 .ペテロに託された鍵
5 .大勢が東からも西からも来て
6 .羊の囲いの例え
7 .悪い耕作人の例え
8 .盛大な婚宴の例え
9 .魂を殺すことのできない者どもを恐れるな
10.ミナとタラントの例え
11.座って費用を計算し
12.駱駝が針の穴を抜けるようなもの
13.小麦と毒麦の例え
14.十人の乙女の例え
15.羊と山羊とを分けるキリスト
16.不正な管理人の例え
17.成長する種の例え
18.道であり、真理であり、命である</span>

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