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この世を支配するのは神でなく悪魔


「悪魔」と言われても、ほとんどの人は黒いコウモリのような鬼の姿を思い浮かべるくらいでしょう。あるいはゲームのキャラクター程度であれば、実際に人を害するなど思いもしないでしょう。
一方、聖書によれば悪魔は直接的ではないながら、人間社会に大きな害を与え続けていて、その害悪は映画やゲームの規模では収まらず、世界を覆って『この世の神』として君臨していると聖書は告げています。(コリント第二4:4/ヘブライ2:8)

そこで、この世で起ることの全てを神が導いているなどと思うのは考え直す方が良いでしょう。神が支配しているにしては、この世の害悪は多過ぎると誰もが感じる通りのこと、この世界に物理法則は働いても「神の摂理」などは無く、世のすべてが神の思し召しであれば、それは神を悪魔のように非情だというに等しい誹謗になります。

中世の教皇は、神が森羅万象のすべてを自ら動かしていると考え、学者ガリレイを裁き、起った事柄はなんであれ神の意志と決め付け、偶然の余地を考えなかったのですが、聖書では知恵者のソロモン王が『予期できないことはあらゆる者に臨む』と述べています。(コヘレト9:11)

それだけでなく、『この世』には人間たちの悪行が横溢しており、それが人同士を互いに傷つけています。この倫理不全とも言うべき人の悪に流れる傾向を聖書は『罪』と呼び、アダムから人類全体に遺伝した拭い難いものであるので、アダムの血統にはないため『罪』のないキリストによる浄化を必要とするものであることを明らかにしています。(ローマ5:18-19)


さて、漢字での「魔」とは、元々仏教の伝来からmaraというサンスクリット語の漢訳として当てられるようになったと言われます。その意味は「善を妨げるもの」また「命を奪うもの」ということですが、この点で、仏教伝承もキリスト教も、その影響の結果がもたらす害悪では共通しています。

わたしたちも、日頃でつい自分の悪いところが出てしまうときに「魔が差した」と言うように、自分らしくない出来心を起こしてしまう原因として語られます。しかし仏教では何か自分以外からの影響を指しているのではなく、本来自分の内に宿るものとも言われます。

キリスト教の中にも悪魔は個人の中に宿る悪い性質のことで実在する行為者ではないと考える人々もありますが、その背景には18世紀という最近までキリスト教欧米では魔女狩りが実際に行われていたことへの反省がそこにあるのかも知れません。万を数える女性が悪魔に憑かれたとされ火あぶりにされ、十字架などの護符をかざして「魔女」と決め付けた女性を捕えようとにじり寄るクリスチャンというのは、どちらが悪魔的だったのでしょうか。

いや、これは他人事ではありません。確かに、人は良くも悪くも常に様々な影響を受けて生活しているものですから、普段なら思いもよらない悪など行いたくもないものです。ですからそれがまじないのようなアニミズムの宗教であれ、ナチズムのような思想であれ、何にしても害ある影響力というものは注意して避けるべきであることに違いありません。

さて、日本では「悪魔」というものの存在を意識する人はまずいませんが、実は、キリスト教界で悪魔の存在を信じる人々は現在でも絶えていないようです。雑誌の調査*ではフランスの一般人で悪魔の存在を信じている割合は19%で、これがカトリック信徒では49%になるとのことです。
しかし、キリスト教色が特に濃い米国ではこれが一般人でも66%と半数以上に跳ね上がり、その内の37%の人々が悪魔からの誘惑を受けたことがあると答えているそうです。*(Valar Europeen/Newsweek)
確かに、善か悪かの倫理的な選択に迫られたとき、人は何者かの誘惑を受けていると感じることはあるでしょう。
では、それが悪魔の働きなのでしょうか。また、悪魔とは存在者なのでしょうか、また何を目的とするのでしょう。そもそも、それが存在するというのなら、創造の神はそのような厄介な者をわざわざ創ったのでしょうか。

さて、聖書の中で、ヘブライ語での『悪魔』はシャイターン「抗う者」また「敵対者」という意味で、神に対抗するものとされます。この悪魔の登場する場面で有名なのは、義人ヨブに悲惨な害を与えて試す場面、またサウル王やダヴィド王などの心に影響を与えて悪い行動に誘うところを見せます。
新約聖書では、キリストを三度誘惑した場面のほか、登場回数は多いとは言えませんが、ほかに印象的な場面としてはユダ・イスカリオテの内に入り込み、イエスを裏切る行動を起こさせる最後の晩餐の場面も挙げられます。いずれの場合にも、人に見える何かの姿をもっては現れていませんが、荒野でのキリストとは対話し挑発しています。まずは肉眼には姿を見せない者であり、今後も人の前に姿を曝すことはないのでしょう。

では、悪魔の由来は分からないままかと言えば、そうでもありません。
旧約聖書の預言の中では、ある人物や特定の事柄を隠喩として悪魔に例えて語っている箇所が有ります。それらの記述を通して『悪魔』の素性が示唆され、その目的も露わにされてもいるのです。

まず聖書によれば、この『悪魔』も初めから悪いものとして創造されたわけではありませんでした。以前には『ケルブ』と呼ばれる種類の優れた天使であったことを聖書の預言書が明かしています。

ここで「天使」という存在について説明しておく必要が出てきました。
『天使』とは、神により物質の創造物に先駆けて創られた霊による創造物らで、億の単位での存在が示唆されています。(ダニエル7:10)
個別の意識を持ち『神の子ら』とも呼ばれ、人間よりは幾分高等な存在とされて描かれます。(ヘブライ2:9)
聖書中のその働きを見れば、十八万五千の軍勢を一人の天使が一晩で討ち取ったり、誰も知らない予告を人に知らせたり、何頭ものライオンを制して預言者を守り、悪い預言者の行く道をふさいだりしています。
新約聖書では、キリストに仕え、また慰め、捕われた弟子たちを牢獄から解放したりする姿を見せています。もちろん、これらの働きは人に出来ることではありません。

天使の中にも種類があることを旧約聖書は知らせており、『セラフ』や『ケルブ』が挙げられています。それらの中のある天使には名前が知られている者もあり、聖書では「ミカエル」という天使長があり、またキリストの現れに関連しては何度か「ガブリエル」が遣わされ、その名にメシアに関わる信頼があったことでしょう。聖書中に見られる名はこの二人だけで、他に「ラファエル」や「ウリエル」などは本来は聖書に含まれない外典からのものです。ともあれ、聖書中での天使は自己顕示欲とは無縁の存在で、神に仕える者としての節度を感じさせ、遣わされた務めを果たしはしても自分を誇るところがありません。名を尋ねられても答えない場面もあります。おそらくは、人間の何でも崇めようとする良くもない性向への警戒もあるのでしょう。

では、そのような天使であった悪魔は、どうして神に逆らう者となったのでしょうか。

旧約聖書にあるエゼキエルの預言書には、その事情を暗示する箇所があります。
そこは、かつてはイスラエル民族に協力し、エルサレムと神殿の造営に助力したフェニキアの商業都市ティルスの繁栄と、その後にイスラエルを奴隷として売り飛ばす裏切りに及んだその悪行の酬いを預言として宣告する中で、明らかに人間ではない何者かについてなぞらえつつ語っている部分があるのです。

『わたしはお前を翼を広げて覆う事を行うケルブとして造った』また『お前が創造された日から、お前の歩みは無垢であったが、ついに不正がお前の中に見いだされるようになった』とも明らかにしています。(エゼキエル28:14-15)
この「翼を広げて覆う事を行うケルブ」とは、この記事のタイトル画像にあるモーセの「契約の箱」の上に彫刻された天使の像にあるように、当時にはこの箱の上のこれらの広げられた四つの翼の上に、神の臨御を表す奇跡の雲が立ち上りその中に「シェキーナー」と呼ばれる光が有ったというからには、ケルブは神の御傍に仕える栄えある聖なる天使であったのです。

この天使の変節の原因について、エゼキエルは『お前の心は美しさのゆえに高慢となり、栄華のゆえに知恵を堕落させた』と語り、この優れた天使の中に利己心が芽生え、遂に神のようになることを望むに至ったことを聖書は教えます。(エゼキエル28:17)

つまり、恵まれた存在者であった天使の一人は、その立場から自ら誘われて傲慢になる道を自ら選び取ったというのです。
この点は、旧約預言の別の場所でも指摘されています。

やはり旧約聖書の預言のイザヤ書にはこうあるのです。
『お前は心に思った。「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登って至高者のようになろう」』とあり、神の座を狙う悪魔の野望が暴かれています。(イザヤ14:13-14)

まさしく、この元天使が願ったことは「支配」であり、キリストに現れて誘惑したときには、世界の国々の栄華を見せた上で、それを与えると申し出ています。その条件は『ひれ伏してわたしを拝むなら』というものであり、悪魔は人間世界を手中に収めるだけでなく、『神の独り子』をもその支配下に置こうとしたのです。なんとも傲慢の極みです。(マタイ4:8-9)

この元天使が創造の神に楯突いたところで敵わないことは承知のうえなのでしょう。この者が目指すのが神の至高の立場に成り代わって就くことであれば、現在までこの世を手中に収めてきたことでは、その願望は遂げられていると言えるでしょう。確かに聖書は『この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらましている』と記し、『この世は邪悪な者の配下にある』とも明言しています。(コリント第二4:4/ヨハネ第一5:19)
これは悪魔が人間の事柄に逐一干渉しているということではないでしょう。もし、そうなら人間に悪の責任は無いことになりますが、やはり悪い人間はいくらでも居るものです。

悪魔はこの世というシステムに人間社会を陥れた元凶であって、この世の構造的な悪の創始者であって、その中で人間たちはその構造を利用して悪を行い、互いを傷つけ合って生きているというところでしょう。
そのためこの世は神から引き離され、悪の道を右往左往したままであることは、世相を見るばなるほど納得できるところです。

イザヤ書に記されたように、天界に高く上げられることを望んだひときわ輝く星という象徴から、キリスト教界の初期からラテン語でルキフェル[Lucifer]とも呼ばれ、それは朝空に一つ輝きながらもやがて消えて行く「明けの明星」から取られた名前で、聖書そのものにはありませんが、悪者でありながら、元々の高められた姿を表してもいる渾名です。
しかし、このような者が存在している限り、創造界に平和もありません。
イエス・キリストは悪魔について『彼が偽りを言うとき、いつも自分の本性から語っているのだ。彼は偽り者であり、偽りの父なのだ』と語られ、エデンの蛇以来の悪の淵源であることを糾弾しています。(ヨハネ8:44)

この偽りの始祖も最終的には火の燃え盛る岸辺から投げ込まれて永遠の消滅に至ることを、聖書の最終巻である黙示録が告げているのですが、それはキリストの最終的な勝利を意味し、そのときには創造界が神の意図する世界となって、神の創造の業が完成することになるでしょう。(黙示録20:10)

しかし、創造界には人間社会を神から引き離して自分の側につけることをもくろみ、「他者を支配したい」という願望から様々な利己心を世に入り込ませる悪の元凶のような人間も現れたことを聖書は知らせています。この世で支配欲ほど他者をいたぶるものもありません。独裁国家に見るように、野蛮で貪婪な支配欲は人権を踏みにじり、階級差別を設けて多くの弱者の上にほんの僅かな者らがあぐらをかくではありませんか。これは全能の神がけっして求めないものです。
これらの支配欲に目がくらんだ支配者らの悪の頭目は「反抗する者」との意味で「シャイターン」つまり『サタン』とも呼ばれるようになり、最初の悪と罪の始祖でありつつ、自分が支配下に置く者らを集めるために神を中傷するので「中傷者」を意味する「ディアヴォロス」とも呼ばれるようになったとされます。これがつまり「デヴィル」で、ほかの「デーモン」というのはやはりギリシア語「ダイモニオン」からきた言葉で、悪魔より格下であり違いがあります。⇒ 「悪霊

では、神が天使らを最初から反逆しないものとして創造できなかったのかという疑問が誰かから起こされることもあるでしょう。
創造の神がそうしなかったのは、人間が『神の象り』として創られた以上に、天使らも自由な決定、つまり倫理的な立場を自ら定めることのできるものとして創られたというところに由来します。
天使も人も、神のように行動し、決定することのできる自由な存在であるので、「倫理」つまり神を含むあらゆる他者とどう生きてゆくかも自由です。
神が『神の象り』を尊重することは、神自らの尊厳を守ることでもあり、同時に自由がもたらすリスクも避けられません。

そのような「自由」など危険だから無い方が良いとの意見も有り得ないことではないのですが、この自由を奪ってしまえば、自発的な善意というものも失われてしまいます。それが真実の「愛」であり、『神の象り』である人間や天使からも失われるべきものではないのであり、それは選択する自由のあるところでのみ生まれる貴いものであるのです。

つまり、善を行うよう予め設計されプログラムされたものは、その設計者の善意の鏡像であって、新たに生まれた善意ではありません。また、規則や戒律に従っている限りには、本当にその人が善を行い愛を示しているのかは分からないままです。
しかし、自由な中から起こされた愛は真正なものであり、その価値は神の愛にも匹敵し得るものと言えます。この愛の双方向性に於いて『神の象り』の真価が発揮されるに違いありません。その愛は神との関わりに大きな意味を持つでしょう。人も天使も神への愛や忠節は規則に従うところからのものではありません。

キリストの十二使徒ヨハネは、『神は愛であり、愛に留まる人は、神の内に留まり、神もその人の内に留まってくださる』と述べます。(ヨハネ第一4:16)
創造の神は、創造界がこのように愛で結ばれた世界となることを意図されたのであり、その愛はヘブライ語での「ヘセド」、つまり「忠節な愛」また「不変の愛」とされます。この点で、確かに悪魔は忠節ではありませんでした。神への忠節な愛を選ばず、心変わりして利己心を自ら選び取ったからです。そのため、創造界には利己心が入り込み、神の創造の意図から外れた考えが調和を乱しています。
この悪い選択も、倫理の上で自由な者にはリスクも有り得ることで、当然に神はその危険を承知の上でもなお被造物にその自由を与えたと言えます。

そうして、この自由な選択は『神の象り』に創られた人間にも問われるところとなってゆき、それがエデンの園に植えられた二本の木を意味深いものとしてゆきます。
倫理の決定は否応なく『神の象り』であるすべての者に問われるからです。

当然ながら、悪魔は人々の自由を奪い、他者への忠節な愛への選択を妨害する以外にありません。特に神と人との間に割り込み、互いへの中傷を行って人間を自分の支配下に置き、出来るなら自分と同じ滅びゆくものにしようとの目論見をも懐いているからです。
この世にみられる他者への無関心や非情さは、人類に対しての悪魔の思惑が成功しており、世界がその利己心の支配下にあることを如実に示しているのです。

しかし『光は闇の中でもなお灯っている。闇はこれに打ち勝ってはいない』と聖書にあるように、いまだ悪魔は全き勝利を得てはいないのであり、忠節な愛は絶えてはいません。むしろ、愛が罪に大勝利する結末を世界は迎えることになると聖書は告げるのです。(ヨハネ1:5)

聖書の最終巻である「黙示録」には、遂に悪魔が滅ぼされ、永遠に存在を終える時が来ることを教えています。(黙示録20:7-10)
では、なぜその時まで神は悪魔の存在を許すのかと言えば、それは自ら悪に染まった最初の者である悪魔を創造の神は用いて、あらゆる魂の内奥の性質、倫理性の試金石としてすべての理知ある創造物を試し終えることを意味するからです。
『神は悪い者をさえその目的のために創られた』とありますが、その意味は、自ら悪に堕ちた者をさえ創造者には用いる道理があるということで、神は悪魔を最後まで使い切って『邪悪な者は善良な者の代価』とすることでしょう。(箴言21:18)

そのために、人類には到来するべきあらゆる個人の誕生を待って悪魔を忍耐しているのであり、そのうえで『終わりの日』に神の裁きが行われる必要があり、『人は一度死んで、その後生き返って裁かれることが定められている』とある通りです。(ヘブライ9:27)

悪魔の役割が終わる時、人々は『罪』という悪魔の誘った道から離れることができ、アダムが食せなかった『永遠の命の木』から取って食べることが許され、こうして神の意志が成し遂げられ、その創造の業は完遂を見ることになり、人は神との永遠の関係に入ることでしょう。
そこではエデンの時のように、宗教はもちろん祈りの必要さえ存在しません。人は神と直接に話すように回復するからです。「宗教」とは堕罪した人間が神と隔てられたためにアダムの子らから必要となったもの、本来「必要悪」なものです。(イザヤ65:23-24)



「自らの象り」への神の忠節な愛


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