古くて新しい「原始キリスト教」
「キリスト教」とは、四千年も前のシュメール時代に生きた中東の遊牧民アブラハムと天地創造の神との間に結ばれた契約と約定に端を発するものです。諸国の偶像の神々に優るその神(エル・シャッダイ)に深い信仰を表したアブラハムに、神は彼の子孫によって『地のすべての民が自らを祝福する』という遠大な目的を明らかにされました。
それはエデンの園から宣告されていたことでもあり、善悪に問題を負ってしまった人類を、神がアブラハムの子孫イスラエルによって救出するというのが、聖書全巻を流れる主題であり、それは未だ完結を見ていません。
アブラハムから二千年の時を経て、その末裔としてイエス・キリストがユダヤに現れ、人類救出の手段『神の王国』について宣明し、人々の『罪』を負う代価としてキリストは自らを犠牲に差し出しました。その犠牲は人類の祝福のために神の前に必須です。
キリスト教とは、完全無欠のユダヤ教徒であったイエスの後になってから、その犠牲の上に成り立って弟子らに啓示された教えです。
その教えはユダヤ教の次元を超え、人は自らに宿ってしまっている『罪』を悔い、キリストの犠牲によって『罪』から清められ、『罪』により悪と不義に塗れるこの世から救われ、創造のままの神の創造物としての栄光ある姿を再び受けることを教えます。
将来のキリストは、エデン後から続いた『罪』のために空しい『この世』を裁き、人々を労苦と死から救うべく、もう一度この世界に関わりを持たれます。
それが『終わりの日』であり、そうして『アブラハムの裔』としての働きが実現され始めることになります。
人は誰であれ、このキリストの救いを頼り、信じることによって、『自らを祝福する』ことになり、遂には、創造の神との関係を回復するに至ります。
「キリスト教」と言えば、一般的に「欧米由来の」また「教会のキリスト教」を指すことがほとんどで、それが当たり前のようにもされています。
ですが、今日の趨勢となっている「教会のキリスト教」は「初めからの教え」とは本質的に異なっています。
そこで、本来のキリスト教を明らかにするためには、原始キリスト教がどのようなものであったのかを知る必要があります。
これを知ることは、旧来のものとは異なる「変わったキリスト教」を眺めることで終わりません。これまでのキリスト教という常識的印象を変更するほどのものになるでしょう。
それは人が普段意識していない自らが置かれた「この世」という実情に気付かされ、自らが生き、また死を迎えることの謎に答えを見出し、加えて「この世」が今後迎える結末について洞察することをも意味します。本来、それらは誰にとっても他人事にならないはずのものです。
◆原始キリスト教とは
今日に広く見られる「教会のキリスト教」というものは、かつてのローマ帝国の国教となって以降の宗教であり、キリストの使徒たちによる原初の宗教とは随分異なっているのですが、教会の信者の間ではほとんど意識されず、西洋文化の香り高い優れた宗教としてキリストに帰依していることでしょう。
一方で「原始キリスト教」は、ローマ国教化で大衆化される以前のものであり、その両者の違いは、「教会のキリスト教」が欧州的、ギリシア=ローマの宗教文化を基礎としているのに対し、「原始キリスト教」はヘブライのもの、つまりキリスト教がユダヤ教からまったく決別したため、ギリシア語文化の中で育まれながらも、基本的にユダヤ伝来の宗教文化に根差しています。キリストもその直弟子たちも欧州人ではなく、ユダヤ人というアジアの人々であったからです。
この違いの具体的な表れとしては、ローマ国教化以来「教会のキリスト教」の中で絶対的なまでに不動の教理とされてきた「三位一体説」を「原始キリスト教」が持たないことが第一に挙げられます。ほかにも数多くの「教会のキリスト教」では当然のようにされている幾つかの教理に違いがあります。
そのように基礎的教理の土台が異なると、その上に展開された事柄にも違いが生じてしまうのは避けられません。
「三位一体」のほかに目だった幾つかを挙げれば、「天国と地獄」「死とは何か」「罪とは何か」「聖人とは何か」「聖霊とは何か」その他には「契約の意味」また「終末のヴィジョン」等に関する違いがあります。
さらに大きな違いとして、「信者だけのご利益信仰」と「善人も悪人も救われる」という、宗教として働く対象の違いがあります。しかし、これは原始キリスト教が無条件の万人救済であるということではありません。
◆キリスト教の目的
「教会のキリスト教」が、敬虔な信者になることで「救われる」とするのとは異なり、「原始キリスト教」では、その人の宗教はもちろん、道徳性や思想信条に関わりなく、救いを自ら選ぶための、本人に明らかな機会が誰であれ必ず差し伸べられることになります。この選択が『神の裁き』の本質であり、道徳的で敬虔な人物が救われるとは限りません。
この世に在る限り、人々には不倫理性が宿っていますが、それは世相を幾らか見るだけで異論の余地がありません。この悪の淵源は人類の始祖アダムに発する倫理不全であり、これから逃れることは誰にもできません。
そのために人間社会は法を定め、警察力と軍事力とを必須とする状態にあり、これが「原罪」の実在を示しています。
人類から犯罪も戦争もなくならない理由は、「人間に宿る倫理不全」にあります。どれほどの善人にでも宿り潜んでいる不道徳が「原罪」であり、それが貪欲な願望となって現れます。わたしたちが日頃見聞きする悪行のニュースとなるものも「原罪」の表層の一部でしかありません。まさに「自分には罪はない」と思うなら、『その人は自分を欺いているのです』。(1ヨハネ1:8)
すべての人が老化して亡くなるのは、『罪の酬いは死』であるからであり、『罪』のために他者と問題を起こさずに生きてゆくことを弁えない人類が、『永遠の命の木』から取って食べ、永遠に生きてよい道理がありません。悪を行う者が永遠に生きるなら、神の創造の意図は永久に達成されることがないからです。やはり、あらゆる『罪』が除かれ、神の意志が地になされなくてはなりません。その『罪』とは「個人が犯すそれぞれの悪行」を指すのではなく、「人間が生来的に持つ不倫理性」のことを言います。
そこで、キリスト教の教えは「愛」にあり、「罪」の反対に位置する「愛」は、人の「罪を覆い」、人を「命」に至らせることになります。
その究極の愛がキリストの自己犠牲であり、そこに倫理の完成があります。そこで人は、自ら「罪」を悔いて「愛」を選び取るべき理由があります。
神は愛の完全性を『新しい契約』によって、使徒をはじめとするかつてキリストに帰依した「聖なる人々」に広げ、彼らの『罪』を浄め、天界の祭司団また王らを構成させ、これらの集合体である『天の王国』に千年にわたる地上支配と贖罪を行わせて、『天にあるものも地にあるものも、キリストを介して神の御許にひとつの集める』ことを神は意図されました。
地では『罪』から清められた人々が、神と共に永遠に生きることがその目的であり、「信者の誰もが死後に天国にゆく」などというものがキリスト教の目的なのではありません。この点を「教会のキリスト教」は誤解して、人類の祝福を備える『聖なる者ら』が天に召される意味を「信者の救い」に取り違えています。これは利他心と利己心ほどに、道を正反対に間違えるに等しいことです。
ですから、どれほど罪にまみれた人類であっても、ただ一つの希望が与えられています。それは最終的に「愛」を選び取ることで、その人がアダムの犯した罪を悔いていることを信仰によって表すことが求められます。使徒も唱えるように、信仰の動機は愛なのです。アダムによって背負わされた「罪」を赦すための代価をキリストが神の前に捧げたことにより、その代価は信仰抱くであろう人々に与えられます。
また、信仰を抱く機会の扉は復活により死者にも開かれることになります。救いは「死ぬまでに浸礼を受けるか否か」など関係のないことですし、「バプテスマを受けたから救われる」わけもありません。現状でキリストを信じない人々には思い違いや誤解があるからで、信者は格別に神にひいきなどされておらず、『悪人の死を喜ばず、悔いて生きることを望む』神の公正さは、人の狭い正義心とは異なりあらゆる人に寛容なのです。実際、キリストは『人はあらゆる罪や冒涜を赦される』と言われます。
もし、いまクリスチャンである誰かが、こうした神の寛容さに異議を唱え、なお信者だけのご利益を主張するなら、それは自分の「天国行き」などの目論見が損なわれることを危惧してのことではないのでしょうか。まさしく、それは利己的強欲というべきものでしょう。
キリストは死に際にも傍らの強盗の改悛を認め、そのエデンへの復帰を認めました。「罪多き者、多くを愛す」また「医者を必要とするのは病人」とされたのがイエス・キリストであり、却って敬虔さや正しさを誇る者を退けたのです。
人が「罪」からの救いとしてキリストに信仰を懐くのであれば、誰であれ最終的に『神の子としての輝かしい自由を持つこと』になることをキリスト教は教えます。それは「罪」に日々苦悩する人類を救う神の善意ある手段です。(ローマ8:19-22)
ですから、それを成し遂げるのは『創造物の初子』であり『神の独り子』であり、地上にアダムと同じ肉体をもって現れたイエス・キリストなくしては達成されない希望です。
その罪の代価を捧げることはアダムの子孫には誰もできません。
キリストという、アダムの血統から生まれなかった「原罪」のない人間イエスの死が、神の前にアダムからの罪の赦しをもたらす犠牲の代価であり、神がその価値ある代価として受けて赦されること、これが「贖罪」(しょくざい)と呼ばれます。
この「贖罪」がキリスト教を特徴付け、根幹を成す教理であり、ユダヤ教にもない優れた教えであるのです。
最終的に自らに宿る苦しみの原因である「原罪」を悔いる人に、つまり、キリストの贖いを知った後に、信じて頼る人には赦しが与えられます。
他方で、そうしない人には与えられません。なぜなら、そのような人は、敢えてキリストの犠牲と赦しを拒み、自らの内にあるアダムの罪を認めずに、アダムと同様の罪を自らも再度重ねて犯して、悪と苦しみを容認することになるからです。
差し伸べられたキリストの赦しを拒絶すること、これこそが「不信仰」と呼ばれるものの実態であり、ただ特定の宗教団体の信者にならないことを言うのではありません。聖書の神への信仰とは、自分が救われるためのものでも、宗教団体に所属するものでもないからです。
しかし、キリスト教の目的は、信じる人を罪のない状態、創造されたままの『神の子』に復帰させることにあり、その人々が創造者と共に存在し続けることを神が赦すことにあるのです。「愛」に生きる人々は「他者とどう生きてゆくべきか」を弁えた存在者となり、神と共に永久に存在することになります。その意味で『地上にも神の意志が行われる』ことになります。
これが新旧の聖書に一貫する神の意志であり、悠久の時にわたって神の歩みとなってきました。聖書はその記録であり、その進捗状況を知らせるものでもあります。
ですが、聖書に必要な情報のすべてが与えられているわけではありません。むしろ聖書の字句に強硬に拘ることは却って難しい問題を招くことを聖書そのものが再三明らかにしています。その拘りは自分を正当化しようとの傲慢に由来するからです。しかし、真の正義は神の許にだけ存在します。人は何が正しいかを探るのではなく、何が価値あることかを探らねば、ただ争いを生むばかりです。人間に正義など初めから無いからです。
◆欧州キリスト教の発生
「原始キリスト教」と「教会のキリスト教」の違いがどのように生じたかについては、最も明確に異ならせたのがローマ帝国の国教化であり、その前後で変化は進行しつつあったものの、国教化に際してキリスト教が法制化され、その段階で何が正しいキリスト教かを政治に決定された事により、キリスト教の変更が起っています。つまり「教会のキリスト教」とは政治が決めた宗教であったのです。
その結果、元よりイスラエル=ユダヤの宗教であったキリスト教は、欧州の宗教となり、ギリシアとローマの宗教文化を土台とし、内容も新たな宗教として興されました。
そこでキリスト教という名称を残しながら、実はその教えでヘブライ的土台を薄め、そこに混入させたのが第一にヘレニズムと呼ばれるギリシア系の異教の影響であり、それらは第三世紀ころには中東から欧州にかけて広く深く浸透していました。ユダヤ教とキリスト教は流血を伴うほどに険悪な対立を招く状況が生じ、聖書の言葉はギリシア文化から専ら理解されるようになり、ユダヤ教からの理解は排除されてゆきましたが、これは大きな損失です。旧約と新約の二つの聖書の緊密な連なりが阻害されたのです。
欧州の土壌に撒かれたキリスト教の種は、ヘレニズムの養分を吸収し、その結果は欧州の宗教として『からしの木』のように大きな姿を見せるものとなりました。その「新手のキリスト教」がローマ帝国の法によって正統とされてゆきます。その具体的な歴史はこの後の記事で解説してゆくことになりますが、事の要点は、今日に一般的な「教会のキリスト教」というものは「ヨーロッパの宗教」であり、原初のヘブライのものではないという点です。
旧約聖書と新約聖書が密接に関係しているように、キリスト教はユダヤ教の土台の上で理解されなければ、根本的で重要な観点を失うことになりますが、まさしく「教会のキリスト教」はそのようなものです。
この点で「キリスト教」を同じように称えていながら、「教会のキリスト教」と「原始キリスト教」とはまったく異なるものであり、両者の間には本質的な相違があって、深い断崖によって隔ての障碍が横たわっているかのようです。「原始キリスト教」という本来の教えは、ローマ国教化以来、欧州の政治体制によって掻き消されて来たため、今日ほとんど知られて来ませんでした。
そこでこのアカウントでは、原初のキリスト教が持っていた教えを明らかにし、さらには、その古い教えから理に適って導かれる教理を明らかにし、本来のキリスト教と呼ばれる宗教が、悠久の過去から一貫したもので、どれほど強力で確固たる論旨に裏付けられたものであるのかを示してまいります。
◆個人の主観判断である「信仰」
但し、「信仰」というものは、科学や数学のように客観的証明ができるものではありません。それゆえにもそれは「信仰」であり、一人一人の主観的での倫理的な決定です。その信仰による「真理」も、その人にとっての「真理」であって、実証された科学のようには他の人に認めさせることはできません。ですから、「自分たちが正しいとするのが宗教だ」と思うなら、それはキリスト教ではありません。「真理」は神のものであり、人間はその一部を捉えるに過ぎません。
そのため人は、他の人の信じるところ、つまり主観的判断の所産である「信仰」や「信念」を互いに尊重する必要があるのも動かし難い事実です。
それでも、どのような信仰を持つべきかについては、各個人の中で推論され決定が行われる必要がありますから、その過程で何かを選び取り、何かを捨て去ることも避けられません。
それゆえにこそ「信仰」は神の前に「裁き」に関わるのであり、『信ずる者は救われる』というのはこの観点からの言葉です。
信仰はまったく個人的な決定であり、家族であれ社会であれその関係から強要して一緒に信仰するものではありません。
思想信条の異なる他者を尊重してこそ、人同士が関係を円滑にできるのであり、それが円熟した信仰者の証でしょう。最終的に裁くのは神であって、アダムの子孫同士にその権限は本来ないのです。
ですから「地域の教化」などは、ローマ国教化の考え方に他ならず、政治との混交の不純というべきものでしょう。「信者は多い方が良い」というのは宗教団体の都合でしかなく、自己義認の押し付けでしかありません。キリスト教とは個人の「信仰の宗教」であって、ユダヤ教やイスラームのような「コミュニティ」で奉じる宗教ではないのです。
そのため、このアカウントに含まれる記事の中で、誤謬と思われる事柄を明らかにし、時に強い言葉で糾弾することがあるとしましても、こちらの論旨が必ずしも正しいとするものではありません。
そこで、こちら側の論旨への反論もあるかも知れませんが、当アカウントは、その議論を行う場とはせず、ほとんど知られていない「原始キリスト教」を明らかにする場として専ら活用致します。
◆原始キリスト教「十四日派」
なお、このアカウントで標榜するのは、第二世紀の小アジア(現トルコ)で隆盛した「十四日派」を中心とするものであり、当地出身である教父(指導者)エイレナイオスをはじめとする、十二使徒の中で最後まで残ったヨハネの指導を受けた人々の教えを特に尊重しています。
使徒伝来の教えを守った古代「十四日派」の大きな特長は
● キリストの命じた唯一の定期儀礼『主の晩餐』を、年毎にユダヤ歴ニサン月十四日の夜に挙行すること
●キリストの伝道の主題であった『天の王国』が実際に地に到来し、千年の間キリストたちによって統治し、諸国の人々の贖罪を行うこと
これらを行い、また信じるところにありました。
以上は、今日の教会に於いて『主の晩餐』は復活の祝い(イースター)に替えられ。地の人々を治め「罪」を浄める『天の王国』は、クリスチャンが死後に召される「天国」とされてしまっています。しかし、どちらもキリスト教の根幹を成す重要なもので、変更されるべきものではなかったのです。
しかし、要点は以上の二点だけに限定されるのではなく、悠久の時に亘る神の人間救済の歩みに対して、個人がどう反応するかということです。
最も重要な事柄は『愛』にあり、それは人と人をつなぎ、信仰を抱かせて神との絆を得させるものとなり、そうしてその人は『自らを祝福する』ことになるでしょう。
そこで用いられるのが『アブラハムの裔』、「神の選民イスラエル」であり、それは今日の血統上の民族を指すのではなく、聖霊を注がれることにより『水と霊から生まれた』『新しい契約』に参与する『聖なる者たち』のことであり、彼らは最終的にキリストの許に挙げられ『神の王国』を構成し、地のすべての人々を『罪』から清め、神の創造物としての栄光に復帰させることになります。
これら本来のキリスト教が教えていた事柄について、このアカウントで明らかにしてまいります。
深い関心を頂く方々のお目に留まることを願っております。
では、本来のキリスト教を目指して探求し、その扉を敲いてゆきましょう。
新十四日刊行会
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