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キリストは神か?

キリスト教の神とはキリストのことですか?
教会員であれば、そう教えられているので「キリストは神です」と答えるほかに選択肢が有るでしょうか。
自分の天国行きさえ確かになるなら、教えられた通りにキリストを神と信じるままで良いと思う信者も、またその一方では普段からこの事で疑問うを持つ方々も少なからずいらっしゃることでしょう。キリスト教の趨勢は、この教えで中世から一向に改善もせず現代に至っています。その頑固さの中心が「神の三位一体説」にあり、今日でさえ、疑うことも邪悪な異端の始まりのように教えられているのです。

カトリック、プロテスタント、東方教会のすべてで三位一体説は教えの基本となっていますが、これら諸教会の共通点は、「ローマ帝国の国教となった後のキリスト教」であることです。それはローマ皇帝とその権威を操った少数派の「三位一体派」による政治的に画策され、実は太陽神崇拝者であったコンスタンティヌス大帝の介入によって決定された教理であり、帝国の法「カトリック教令」(380)によってテオドシウス帝が定め、「国家統治のために施行したキリスト教」であって、元来の教えとは大きく異なっていることを知る人はどれほどいることでしょうか。


この古いヨーロッパの歴史のため、神とキリストは同じく神であるとキリスト教界では広く教えられています。その根拠の一つにアタナシウス信経があり、そこでは「三位一体において前後はなく、全位格が同じく永遠であり、大きさにおいて平等であり、すでに述べたように三位における一体であり、一体における三位を礼拝すべきである」とされています。「父なる神」、「子なる神」、「聖霊」もセットで同じ「神」との教えであり、「救われたいと望む者ならば三位一体について以上のように信ずべきである」と地獄の恐怖を煽りつつ「信経」は三位一体を信奉するよう命じています。
(今日、「アタナシウス信経」は、実はアタナシウス自身の著作ではなく、五世紀の捏造文であることが知られています)

これに対して、アタナシウスより一世紀古い人物で、キリスト教がローマの国教となって俗化する以前の初期指導者であったオリゲネスは、「父と子は、その本質について言えば二つのものであり ・・・ 父と比べれば子は非常に小さな光である」とその著「諸原理について」の中で教えています。

では、神とキリストとの関係はどういうことになっているのでしょう。
諸教会では「三位一体は神秘であるから人が理性的には判断できない」とも教えられますが、あのアイザック・ニュートンは「理性で判断できないものを信仰などできない」と三位一体説を退けていました。たしかに道理のないものに人は価値を感じられず畏敬も尊重できません。ましてそれに生き方を託せるわけもありません。それは人間の知的本姓に反するものだからです。三世紀にカルタゴのテルトゥリアヌスが『不条理ゆえに我信ず』と言ったからとしても、その不条理にも「捏造」までは入らないに違いありません。信仰とは個人の主観による判断そのものだからです。

人類史上の偉大な学者ニュートンは科学の分野だけでなく聖書研究でも非常に優れた成果を挙げています。その一つには、新約聖書のヨハネ第一の手紙五章七節に以前書かれていた『天には父と言葉と聖霊がある。この三つは一体である』との言葉が、カトリックのフランシスコ・ヒメネス枢機卿(シスネロス)による16世紀の意図的挿入であることを突き止めたことがあります。そのため今日の聖書にこの言葉を見ることはありません。

そこで疑問となるのは、聖書が述べる事、また初期の指導者ら(教父)が教えている事と、百年ほど後に過ぎない四世紀にローマ帝国の影響下に入った教会の教えとにそもそも矛盾があるのかということです。
また、実際キリスト教史で「三位一体説」が地歩を十分に獲得するのは五世紀を待たねばならず、その前の四世紀にはユダヤ教以来の一神説がキリスト教界の主流であって、三位一体説は多様な宗教の混じり合うエジプトからの由来で、新参の少数派で劣勢であったというのはどういうことでしょうか?
加えて、どうして「三位一体説」を押し通すべき理由があったのでしょうか? しかも 「三位一体説」推進の背後には、純粋なキリスト教の探求でなかったこと、政治的駆け引きがあったことは公然の事実だったのです。
  ⇒
「アンブロジウス-俗世との岐路に立った男-」

諸教会では「イエスは神だとはっきり聖書に書いてある」とする教師は多いのですが、聖書にはそうではないと確言するところが少なからず有ります、また、聖書では『神』が創造の神だけでなく、ある場合に人間も指すことがあります。『神』と書いてあれば常に創造の神を指すとは限りません。
(詩編82/ヨハネ10:34-36)
その意味で、キリストは地に来られる以前から天使らをしのぐ神のような存在者であられ、死に至る忠節を示して天に上げられた後は『完全さに達し』、そうして自らを『清くした方』は、人々が『清くされる』立場に立たれたのです。(ヘブライ2:10-11)

使徒パウロは、キリストの従順が成し遂げた偉業とその報いについて、この述べています。『おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである』。(フィリピ2:8-11/エフェソス1:22)

そこで「唯一の神」と「その子であるキリスト」と捉えるなら、非常に深い聖書全体の理解の広野に到達できるというのも事実です。 ⇒
「キリスト教の優越性」
このように自分の救い目当てに教えられるままの「ご利益信仰」を打ち破った先には、神の壮大な目的への理解があります。21世紀ともなった今日に「三位一体を唱えないキリスト教は異端だ」と叫ぶのは、実に古代中世の暗闇の中に留まってユダヤ・ヘブライの神の概念を捨て、ヘレニズムの異教の怪しげな神秘主義をそのまま擁護していることになってしまいます。
それでも三位一体を守り通さねばならない理由が何かあるものでしょうか?

しかし、キリスト教界には歴史上に三位一体説を退け、元来のキリスト教に立ち戻ろうとした個人や宗派が存在してきたのであり、その人々の確固たる姿勢には、大勢に流されず『自ら判断して』神とキリストの真相を求める点で『求め続け、たたき続けよ』と言われたイエスの言葉に従う潔さが見られます。(ルカ12:57) ⇒ 「非三位一体論者ら」

では、三位一体説を認められない聖書の記述にどのようなものがあるかを幾らか考えてみましょう。


・神の『初子』で『独り子』のイエス
創世記のはじめにあるように『神』とは、創造の源となられた言わば第一原因者であり、あらゆる存在はその被造物です。
一方でキリストについて聖書を通じて明らかにしていることがあります。

新約聖書はキリストについて『御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである』と明解に述べています。
さらに続けて、『万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである』とあります。(コロサイ1:15-16)

つまり、御子イエス・キリストが創造物の初子であり、創造に加わるだけでなく、神の長子のように創造物の一切がキリストのために創られたことを明らかにしています。ですから『彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている』と続けて書かれてもいるのです。

これは新約聖書ばかりではなく、旧約聖書にも創造を神と共に行い手伝った何者かについて書かれた部分がありました。
『主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。
いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。
まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしはすでに生れ、
山もまだ定められず、丘もまだなかった時、わたしはすでに生れた。
すなわち神がまだ地をも野をも、地のちりのもとをも造られなかった時である』。(箴言8:22-26)

このように神が創造の業の初めに創られたという『わたし』とは何者であるのか、これは古来ユダヤ教徒の謎でありました。
ユダヤ教徒は、今日までもイエス・キリストを認めず、新約聖書も退けているので、その謎は解かれていません。

また、上記の句の後にはこのようにも述べられていたのです。
『海にその限界をたて、水にその岸を越えないようにし、また地の基を定められたとき、わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、その地で楽しみ、また世の人を喜んだ』。(箴言8:29-31)

これらの聖書の言葉を背景にヨハネ福音書の最初の三節を味わうと、そこにはキリストがただ神であるという捉え方がどれほど言葉の表面だけの理解であるかに気付かされることになります。
『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった』。(ヨハネ1:1-3)

また、神が直接にすべてを創造されたという意味では、天界のキリストは『神の独り子』でもあられましたからヨハネは次のようにも書いています。
『そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた』。(ヨハネ1:14)

そのため、聖書の最終巻である黙示録の中のイエスについて『神に創造された万物の源である方』と紹介されているのは上記のそれぞれの言葉と一致するものであり、これらは人間イエスとなって地上の人間の間に来られたキリストが、ご自身を『人の子』と何度も自称された事と一致することです。(黙示録3:14)

神の僕であるイエス
旧約聖書は『とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる』と永遠の存在者である事を述べますが、『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた』と死を経験したことを告げています。(フィリピ2:6-8)

これはペテロが『あなたの僕イエス』と祈りの中で唱えているように、使徒たちの時代でも変わるところなく、弟子たちはイエスの神への忠節さに倣う道に召され、同じ十字架を担う苦難の生活に努めたのです。(ペテロ第一2:21/マタイ10:18)

やはりキリストが従順を尽くすのは神に対してであり、神とキリストは父と子の関係にあるのは明らかで、別の存在でなければキリストの神への愛ある歩みは意味を成しませんし、理解が成り立ちません。
また『永遠から永遠にわたって存在する神』が地上で死を経験するなら、それは神の永遠性に途切れが存在することになり、それは全知全能の神に死の弱点があることになるでしょう。しかも、キリストを死を見守り、墓から引き上げ、復活させたのはいったい誰になるのでしょうか。

三位一体を克服した先にあるもの
やはり、キリストは確かに『父はわたしより偉大です』と言われ、質素な生活を送られながら『わたしは父を尊んでいる』と福音書の中で明言されているのですから、そのキリストを同じ神に祭り上げることは、イエスの神に対する誠実な畏敬の精神を認めることにならないでしょう。キリストの捧げた貴重な犠牲の価値と、そこに込められた神への忠節の輝かしい歩みは、三位一体説の教える奇妙な神の自作自演の矛盾によって崩されてしまうからです。(ヨハネ14:28/8:49)
確かに、三位一体ではけっして得られることのない素晴らしい教えや救いが、聖書に満ち満ちていることは紛うことのない事実です。

一方で、キリスト教が中世の蒙昧に囚われ、正しいつもりでかえってキリスト教の価値を引き下げてよいのでしょうか。
自分の救いに拘ったところで、キリストの命をかけた誠意や、切実な神への祈りの想いを汲まないのであれば、その「救い」はむしろ危ういように思えないものでしょうか。
キリスト教徒には、この件で大いに再考の余地があるでしょう。

問題の要は、信者は救われたと安心するか、キリストの犠牲が最終的に信仰持つことになるどんな人々も救われることを願うか、という正反対の信仰の精神の選択に関わるものです。どちらに価値があり、また神の意図するところであると思われるでしょうか。

「三位一体というパン種」
キリスト教の初期にその勢力を急速に膨らませた異教文化の異物


(このような記事が、中世以来の旧態依然とした「正統」を誇る大多数のキリスト教徒には受け入れがたいことは承知しております。それはまた既成の宗教体制にとっての不利益でもあるに違いないでしょう。しかし、目的意識はどこにあるべきでしょうか。キリスト教の真相が三位一体とは別のところにある可能性が指摘されるとき、ただ退けるばかりでは『求め続ける』ことにも、『自分で判断する』ことにもならないとは思えないものでしょうか。もし、「素人が自己判断するのは危険だ」と言われるなら、キリストの到来を見分けた多くが当時の一般人であり、聖書を暗記するほどに博識な宗教家らがイエスを退けて率先して処刑させたのはどういうことでしょうか。今や21世紀も進み、キリストの再臨も信仰される人々には、ますますこの三位一体という名の異教の魔術は見過ごしてならない問題となることでしょう)


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