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宗教は叡智ゆえに存続する -その効用-

いつの時代にも、人類は宗教と分かち難いものとされてきた。
かつてソビエト連邦では、宗教を終わらせるために、宗教施設の没収や聖職者の追放、学校教育での徹底した無神論の指導がなされ、レーニンはいずれ科学の叡智の前に宗教の灯火は消えてしまうであろうと考えたが、民衆の無言の抵抗は侮り難く、やがて消えてしまったのはソビエト体制の方であった。
おしなべて人間は宗教を希求するものであることがここにも明らかであろう。古今東西、宗教を持たずにいた民族があっただろうか?
人と宗教とを引き離す試みは今後も達成し得ないに違いない。

さて、宗教では人を超える何者かとを関係付ける役割が期待される。
人は自分自身の意味について考え、自分や周囲の人格に本来的に価値を感じるものである。ここに科学の関わる余地があったものだろうか。
人は周囲と関わりつつ、その一生で行うこと、成し遂げること、あるいは行えないこと、成し遂げられないことについて思い巡らすと、人生には限界があり、それも個人の思うようにはゆかないことが多く、またあっという間に老化や寿命を迎えることに空しさを感じることになる。

そして誰であれ人は例外なく最期を迎えるので、人はいくらかの成果を得たにしても、いつかはその報いとも別れ、また他者との交流も終わるときが来る。

そこで我々人間は、その生涯に何の意味があるのかを考える。
一生は常に害悪に曝され、不安定であるばかりか、苦しみが必ず臨むことになり、長く生きても寿命を越えることはなく、死は人の都合に合わせて到来するわけでもない。

人にとって、この世は生活するために生活し、仕事の業に熟練すること、苦しい経験を重ねて円熟することくらいが功績であり、家族や親しい人々と幾らかの幸福を得ることがその楽しみではあるが、一生の大半は難儀と悪との遭遇に対処することに費やされる。
この世は人を不公正で不平等、不条理で不寛容の中に投げ込み、また偶然の苦難が不意に襲い掛かる場でもある。
社会はこれを是正しようと努めては来たが、割りの悪い防戦に終始しているのが実情である。

人は、このような場である「この世」にいつの間にやら生み出されたのであるから、その説明を求めるのも自然な問いと言え、そのために、人はこの世の現状に勝るものを求める。
人は親から生まれて、やがて自らも配偶者を得て子を成し、育て上げた後にはこの世から去ってゆく定めにあるのだが、人というものはそれだけの役割で終わるのか、また、死という命の終わりが必ず来るということをどう心で受け止め、また対処したら良いのか。この問いに宗教存立の礎が据えられているであろう。

この問いについて人間自身の価値観が、たいていの場合に人生の短さにも、その苦難続く有様にも納得させはしない。
また、自分自身が存在していることさえ本来は謎であり、自分というものの意味を思いめぐらすと、その意味を与えてくれるであろう何者かをどうしても考慮しなければならない。すべてを偶然とするなら、人の存在はあらゆる他者との関係性も倫理の意義も失って狡猾に振舞い、欲得だけが生きる指針になり、徹底的に虚無であることになるからである。

だが、多くの人はそのような生き方よりも徳のような価値ある生き方を望み、自らに偶然以上の価値を見出そうとしてきた。そこで自分という存在理由、またこの世界がどのような事になっているのかへの回答や対処法をもたらすであろう「上なる者」との関わりを求め、その仲介を為す宗教というものが要請されることになる。
人は「信仰する」ことで現状以上の何かを求めるので、その目的を問われると「幸福になるため」とよく言われるが、それも「この世」という場に危うさを感じ、満足していない証といえる。

また、人が特に生きる上で求められるものに、他者とどう関わって生きるのかという難題もある。
この人の徳に関わる事柄が及ぼす影響の大きさは古来より社会で意識され、宗教に命題を与えて来た。本来、人と人との関わりに難しさがあり、人々はこの「倫理」に於いて大きく傷ついてきたからである。
人には生まれながらにそこそこ良心はあるにしても、徳性のようなものは備わっておらず、生きる上の指針も持ち合わせないので、成長する過程で周囲から社会性というような自他の関係を、或いは慣例や法律を通して人との関わり方として学んでゆき、とりあえず倫理上の答えを得て生活に支障のないように何とか努めている。

それでもこの世は、倫理という他者との関係性に大きな問題を抱えたまま、それぞれに正義を唱えて争い続けるしかない。
即ち、人は外部からの強制がなければ利己心をむき出しにし兼ねない恐るべき生き物であり、法を守っていてさえ虎視眈々とその隙を窺うという本能的な悪を持っている。法と権力の存在は人間に染みついたこの悪質性への応急処置また対症療法であり、善悪を仮に定め、力でねじ伏せるばかりで、人間悪の根本問題は解決などしていない。

その中で、人間社会は確固たる正しい生き方を望み、それで居ながら見出せず、また善悪の基準もそれぞれになってしまい、そこから一般的な害ある悪を罰し、善を勧めて酬いるために見張る人を超える存在が要請されてきた。それが法治の良心の基礎ともなり、また倫理問題を補う働きを為すものとされている。

それであっても、やはり統一されない不完全なものであるので、人によっては社会一般の法律また道徳規準で満足せずに絶対不変な徳性、さらに進んで自分という存在への絶対的な解答、完全な生き方や徳の指針を求めるなら、その人は宗教や哲学や社会思想、また成功の道やスピリチャルのようなものに向かうことになる。

しかし、元来争いを続ける人という存在は、誰にせよ絶対のものを持てるものだろうか。まず、人間が完徳であるなら、はじめから争う理由もない。
このように素のままの人には欠けているものがあり、その欠けたものを人は何かしらで満たす必要を大なり小なり感じている。その欠けたものは、自分が何者であり、他者が何者であり、共にどう生きてゆくかという倫理の問題であり、その倫理という他者との関わりには自分を存在させた意志ある上なる者をも含む。

実際、人は太古から嬉しいにつけ、悲しいにつけ、人生の節目ごとに意味を与えようと宗教の儀礼に頼り、周囲の人々と共に自分以上のものからの意義や権威付けを求めてきた。また、自分たちではどうにもならない事柄に介入してもらう事を願い、様々な祈願も捧げてきたものである。
そこに人間というものが、本能的なほどに「上なる存在」を意識し、頼ろうとする稀有な生物である証がある。

だが、人は自分が存在する理由と死についての問いでは、人間自身で回答を得ることができるものではない。
なぜなら、我々のだれもが自分の意志で生まれて来たわけではなく、また好んで死んでゆくわけでもないからであり、そこでこのような境遇の源を本能的に探り始めることになる。
即ち、我々は同意なく生まれ、また同意なく去ってゆく。しかも生み出されたこの世界では、人々が幾らかの幸福を味わうために苦労が絶えない場なのであるから、各自個人がこの世に生まれ出るに際して同意するとは言い難いものがある。

それにも関わらず、自分が人として生きていることに人は格別の価値を感じずにはいられない。なぜかと言えば、そのように創られているという以外にないであろう。備わった価値観が生きる事に意義を見出しており、人の心と体は生きようとしているので、生きることを否定するとすれば、それは余程の苦難を負う場合だけであろう。

やはり、生涯の意味に何らかの答えを得て自分という存在に意味を与えないことには人間の知性は落ち着けるものではない。
そこで求道が行われ、古今宗教というものが多様に案出され、人の必要を荷ってきた。
それは、何の説明も自覚もなくこの世という死にゆく苦難多い場に生み出されたことの意味を問うことであり、人は有力な他者や社会から受け入れられることにまず安堵を得る。周囲の人々や組織から認められその一部を構成することにより、自分の存在価値を見出すのである。

それだけでは満足しない人は、上なる存在者との関わりを求め続ける。なぜなら、一般的な社会はグレーな基準をもつばかりであって、生きるために生きる方策や指針が精々であり、多くの解決しない問題を負うものだからであり、そこに「この世への隷属」のようなものを感じ取る人は常に一定数は居て、その悶々とする生活からの脱出を「救い」のような言葉に託している。

これは不自然なことではないのだが、そこで自分の生涯の意義などを深く考え、長くもない一生に価値を与えたいとするなら、周囲の俗人が提供する以上のもの、凡庸でない何らかの優れた指針に到達したいという無意識的な渇望に動かされることになってゆく。

そこで凡庸ではないと唱える思想や宗教に人は向かうことになり、絶対的な価値を見出したと思えるところで、自分や他者また社会の存在意義を見出し、そうして生来的な孤独を解消でき、精神的居場所を確保するなりして、自分という存在に大きな安心感を得る。人の叡智がこの状態を求めさせるのであろう。

それはたとえ虚構に基づくようなものであってもその必要は満たさねばならず、それにすがり、それぞれ真正なものと思い込み、それを信仰や宗教と名付けて絶対と相対の入り混じった特異な精神状態を作り上げてきた。
即ち、個人には絶対であっても宗教の自由ある社会では相対に扱われるものであり、その信仰はその人にとってこそ有効なものである。だが、たいていの宗教家の教えは相対的ではないので、そこに争いの元がある。この点で宗教とは不寛容なものだが、それは政治と変わらず「正解がない」からであろう。宗教もまた「倫理問題」を孕んでいるからである。それでも、その人はとりあえず人生の難問に「答え」を見出し安堵する。

宗教がその教えによって個人の内面の必要を満たす以上、各個人の思想信条は尊重される必要があり、それを破壊したり強制したりすることは人格を否定するに等しい。また、それぞれの異なりは、我々人類に「上なるもの」への共通の認識がないことの証であり、たとえ絶対的存在者がいても、その証明が不可能にされていることを示している。思想信条の選択は、その人自身の内面の動機を写す鏡のようにもなっている。人はその性格や欲に応じて何かを選び取るものだからであり、絶対普遍のものは宗教の分野には存在せず、「正しい宗教」との言葉そのものが矛盾している。つまり数式のように神存在を証明することには初めから無理がある。人の生き方、価値の捉え方は各個人に属するものであり、また神と人との関わりも個人が決定するべき「倫理問題」だからである。

一端、人が信仰の中に入ると、宗教の教えから求められる特定の行動を行うことでその安堵を実感することになり、自分の倫理性が正当化される。
または間違いのない生き方や道徳律を求めて、上なる者との関わりを仮想して自己肯定感を満たそうとする。そこで宗教指導者にはそのような人々の渇望を満たす条件としての論理や行動の型を与える点で頼られ、信仰者に上なる者との関係性を実感させる渇望を満たすことが可能となる。人は肉体ある具象物であるせいか、偶像や什器や小物という物体によって具体性を高めたいと思うのであろうし、教団組織やら建造物や彫像や護符によっても上なる者との関わりをありがたく実感するものとなっている。

だが、そこで上なる者との関わりの有無は証明できず、またその必要もない。そこを「信じる」のが宗教である。
そのため、信じた人々が何らかの特徴ある行動を起こそうとするのは、上なるものとの関わりという、現実の領域にない事柄について肉体を持つ人間が、具体的な関わりを実感するための手段としてであり、そうした特異な行動によって上なるものとの関わりを得ようとする。また、善行や道徳的に振舞うことで上なる者から価値ある者として見出されようと執着する信仰者も少なくない。

そこに良心的満足のほかに確かな保証は特にない。ただ聖典の記述なり宗教指導者の受けた啓示なりのような教えに頼るばかりで、まず普通の人には「上なる者」との関わりに自発的な能力や根拠は持ち合わせず、まず宗教家以外に自信を持って証拠を唱える者はない。普通の正直な人は自分が上なるものとの関わりを持っているとは思えないので、それを持つと唱える人が求められ、その保証は各人が納得できればそれで良く、それが信仰者個人にとって間違いの無い上なる者との絆とされるようなことになる。

そうして人は、生き辛いこの世を生きて行く助けを見出すが、同じ信仰の仲間の間では運命共同体が形成され、助け合いが期待できる場合もあるので、実利的にサポートを受けられるメリットも有り得る。これは個人という弱者に、群れとしての勢いを与えることにもなり正義感や自己肯定感は増幅される。人が一度加入して集団であることの旨味を知ると、上なる者との関わりを名目としつつ、現実社会での一定の勢力となって強く世を渡る誘因もはらんでくる。ここに正義感の外側への押しつけの萌芽もあろう。

ここに於いて、人々から敬意を受ける指導者の側は、その要求を帰依者に対して様々に通すこともできることになる。これは、巨額の利益を請け合いつつ、前金を受け取るようなものであるが、本人の了承済みであるところが「信仰」となっている。
この対人操作の行き過ぎが宗教という分野の評判を外部で汚すものともなってきた。宗教そのものが人の弱みから搾取や加害を始めるからである。

また、宗教団体にとって信者数は存立するか否かの要件となるので、個別の宗教はぞれぞれに人々の渇望から教理を様々に調整する誘因に曝されてきた。つまりは、宗教家らは人々を宥めながら、いつしか一類の支配体制を構築してきたのである。だが、これは人間の思考の傾向や習慣との妥協であり、つまるところ信者と宗教家という人間同士の欲望の調停作業でしかなく、上なるものとの関わりがあるというほどのものでもない。

その前に人は目先の利益を求めはしても、それを与えない神にも宗教にも関心はまず持たない。ほとんどの人は自らの人生さえ損得勘定が先立つのであり、自分の幸福以外のものにはさして価値を見出さず、自分の渇望のために上なるものを求めるところは、畢竟、動物のように生きるだけ生きて死んでゆくように一生を終えるばかりであり、独立した他者としての「上なる者」を畏敬し、その意志を求めるよりは、自分の都合に合わせて神を捏造までしていることになる。そこを悪辣な宗教家に付け入られ、ご利益信仰に絡めとられている。信仰する人々の頑固な正義感はその貪欲さに原因があり、自分の欲を神としているのであり、神を純粋に畏敬し、その意志を謙虚に探ろうとしているわけでもない。

この問題の根が深いところは、指導者ですら自分の教えに酔い、与える害には無頓着で、善意のつもりで悪を為すことが少なくないことである。宗教の超絶性が主張されるところで、教えの正しさが強調される中から、人々の良識と判断力が抑制され、却って人の価値も後退し、精神的隷属に陥ることになる。それでなくても、この世で人は既に様々な隷属に曝されているにも関わらずである。帰依者がそれを許してしまうのは、宗教家が請け合った益が非現実的に大きく、受ける害に勝ると思うか、ギャンブラーが陥るように、既に差し出した費用の埋没を内心恐れるところもあろう。

このような宗教からの害については、人間社会が経験則として今日までに培ってきた人権への意識の高まりが、害を成すと捉えられる宗教団体や指導者に社会問題として疑念を提起される状況が都度都度に生じるに至ってきた。少なくともこの点で、社会は宗教よりは進歩を遂げている。人と云う実態を見つめ、その価値を人権という事柄の改善に見出してきた社会は、古代や中世のまま迷信的蒙昧の中に止まっては来なかった。

それにも関わらず、やはり人はその知性や価値観のゆえに尚も宗教を必要としている。それだけ自らの価値観にこの世という生まれ出た場がそぐわず、人々はより優れた幸いを求め、また苦しみを避けようと右往左往し、ついには藁をもつかむ思いで、宗教家の言葉に望みを繋ぎ、それにしがみついているのである。それはこの世を生きる人の空虚さの表れといえる。

だが、人間が存在する端緒となった超絶的な原因存在があるのなら、人の生涯についての何らかの一式の答えがあるはずで、その意図を持つであろう原因者を人は「神」とし、そのつながりを求め続けてきた。
その中で、宗教が神への経路を唱えて暴走し、人の価値を低めて来たとしても、それは関係のない者が神との仲介を唱えただけのことである。

しかし、その原因者について人は自らの方向から探り出すことができない。その上なる存在は我々の知覚では捉えられず、上からの情報に頼るほかない。しかも、人間には上なる者への知覚も共通認識も無く、生まれ出たのにも関わらず、存在させた大本の存在者についての知識は元より白紙にされており、ただ漠然と何らかの上なる者を抽象的に感じ取るばかりであるが、その人が育つ環境での宗教の状況によって上なる者への捉え方が醸成されることになっている。

また、宗教に影響を及ぼす強い要素に「死」がある。
おおよそ人は死というものを経験してみることができず、死後に意識が残るか否かも証明することはない。確たる証明ということでは宗教も科学も死後については何の証明もできるわけでもない。
そのため宗教が如何に荒唐無稽な教説を唱えても、証拠立てて論駁することが難しく、それが宗教の教えが古代の蒙昧をそのまま引きずって今日に至っている理由であろう。だが、それでも人は「死」に関して惹き起こされる情動の対処については宗教に頼るほかない。

「人の死は終わりではなく、死後にゆく天国や極楽がある」また、「命は別の命となって生まれ変わる」、または「人の一生は試練であって、どう過ごすかで裁かれる」あるいは、「信者になったなら安楽な天に召される」、などそれぞれのヴィジョンが示され、何とか「死の問題」から逃れようとする人々を宥めるのも宗教の大きな役割となっている。たとえ半信半疑でも、いや信じてさえいなくても、そのヴィジョンに束の間の慰めを得る人は少なくないのであろう。
他方では「命に終わりがあるから頑張れる」または、「命を何かに捧げたい」というという気丈な考えも聞くことがあるが、それらも自分の価値をというものを感じてのことであり、「死への対処」としてやはり一つの宗教と言えるであろう。

加えて「死の問題」から宗教の分野では、心霊術の側面を持っていることが多く、人の能力を超えた不思議を行うところでは、人間界の事象を超える物事との接点もあり、これは宗教を補強するものに利用されているが、その超自然からの影響は人間らしい情動によって理性的価値観を狂わせることが多い。だが交霊術という厄介な雑音とて死後の霊を証拠立てるまでに至るものでなく、不思議が起こるとしても人の倫理性を納得させ、深い価値観を動かすほどのものになってはいない。
そこにも迷信的蒙昧の原因があり、その延長線上に占いなどのアニミズムの領域が広がり、その教師らの収入源となっている。人は知ることの限界にも悩むからである。

しかし近代に入ると、人は自然科学の発達によって新たな類の宗教を得ることになった。科学は古代からの迷信を拭い去り、合理的に人間自身を説く新たな宗教をもたらしたように見えたであろう。
19世紀から今日まで、科学こそが人間の叡智であり、それが宗教という愚昧を論破し、人間に新たな原理を与え、幸福の可能性を輝かしい段階に押し上げるものと思われて来てはいる。

だが、純粋な科学は神という領域に踏み込むことはできず、神の有無を語るならそれは科学の限界を越えている。
即ち、創られた物を観察しても、その作者を知ったとは言えないように、自然科学が自然界の観察によるものであるなら、自然界をも創始させた存在にまで論を広げるには無理がある。

しかし、人は科学の持つような確実性に頼りがちであるので、科学的な上辺を装うだけの宗教、「科学信仰」の時代を人類は迎えることになり、さらには無神論や不可知論という新たな教理を備えた新手の宗教までが宗教界に加わってきた。しかし、科学は生活を便利にしても、特に人々に幸福をもたらしてはいない。イノベーションが起こっても幸福は訪れず、厄介な人間性が常に新たな問題を生み出すところは、害悪の淵源が科学そのものではなく人間自身に内在していることを示している。
加えて科学がその領分を超えて、人を指導するかのような錯覚が人々一般にあるため、今日では宗教化した疑似科学の領域にまでアニミズムが浸透しており、科学と心霊との混濁があり、この非自然界からの影響の根深さが見られる。

もし、人を創った原因者が、自らを人に明かさない意図があるとすれば、そこで人は自ら多様な憶測を展開する以外になく、科学崇拝や無神論を含めて様々な宗教が現れ出る余地があり、そして実際にそのようになっている。
また、科学を混ぜ込んで、その正当性を担保しようとする折衷的な教えを説くことは今日の宗教界に広く見られる。それを通し、現代の人々が如何に「科学信仰」を無意識的に抱いているかの証ともなっている。その背後には神に関する事柄を明瞭にして完全無欠の答えを得たいとの性急さが人の傾向として有ろう。

また、人が宗教に正しさや正確性を求める一因には、そこから得られるとされる益がある。宗教の帰依者に物事を単純化して考える傾向が強いのも、神を一刻も早く現実化し、自らの益を確定したいからであろう。
この点で「科学」と「信仰」とは確証性と不確実性に於いて正反対であるのに、人は解答を急ぐ余りに、この両者を混ぜ込んで「信仰」と「科学」を合体させ、またそこから得られる益を確定しようとして「科学」は科学でなくなり、「信仰」も信仰でなくして、わざわざ二兎を追う結果を求めているのである。
このような「科学信仰」は現代人の宿痾のようではないか。

だが、「上なるもの」への探求はそう簡単ではない。少なくとも創造神を説く聖書教については遥かに意味深いものがある。
現代的科学とは無縁に見える最初の文明とされるシュメールの時代、それはメソポタミア南部地域から都市文明が芽生え栄えていた頃の四千年前も前に遡る。人間はこの時代から変わらないものがある。それが個々の人が構成する「社会」というものの「俗なる性質」である。

この時代に関して聖書に注目するべき理由は、神と遊牧民のある人物との邂逅によって開かれた「凡庸でも俗でない視点」である。
「都市文明」の現れで、この世に見られる制度や体制が一斉に現れ出た原初の文明以来、「この世」というこれまで継続した一連の社会とは異なるところの都市の外側からの「俗ならぬもの」の視点を与え、空虚なこの世からの脱出についての概念を与えているところにある。それこそは人の価値への回答と成り得るものである。
なぜなら、そこに始まり聖書全巻に展開してゆくその内容は、人の能力を遥かに超えることを示しており、それは人の叡智を、「俗」を離れた価値観を奮い起こして止まないからである。

創造神と人との関わりと問題を教える聖書教は、徹頭徹尾「倫理の観点」を中心とするもので、それは即ち、他者とどう生きるかという、神を含むあらゆる他者との関係についての教えであり、焦点は利他的か利己的かというところにある。人生の空虚の問題の要諦はここにある。

聖書では創世記以来、この世の由来が人間の不倫理性からのものであることを知らせ、実はこの世という場が、神の創造の意図から逸脱し、神から遊離した別の世界を構成しているものであり、いずれは解決を要する不完全で有害な環境であって、そこに置かれている人類には空虚さが避けられず、人の価値観はそこからの救いを欲するものであることを示してきた。

しかし、他方で『生めよ増えよ』とアダムとエヴァに命じていた神は、以後の人々の創造を生殖に委ね、史上の人類総数が『地に満ちる』までさまざまな個人の到来を待ちつつ、その間に人類の陥った空しい状態からの救出の準備を進めてゆかれるのであった。その救出の出発点がシュメールの時代、聖書教の礎となるところの創造の神と一人の都市に住まない遊牧民との邂逅にあった。

さらに遡れば、人類がその救いを要する状況に陥った原因は、人が『罪』を負ったことにある。神話とも揶揄される創造の記述ではあるが、実はこの指摘には否定し難い合理性がある。
その『罪』とは各個人が犯す個々の悪業を指すのではなく、アダムから遺伝し、すべての人の心に宿るところの拭い難く悪に向かう傾向を指している。その『罪』が確かに存在することは、人間社会の有様を幾らか見聞きするだけで十分に明らかである。

その『罪』は個人に倫理上の不完全さを負わせ、人と人との間に緊張や亀裂を生じさせ、社会全体に大きな害をもたらしてきた元凶である。我々は戦争はおろか犯罪さえ止めることが出来ず、大人であれば搾取や虐待、人間関係での衝突や軋轢が避けられず、子供であっても仲間からのいじめや毒親の害、経済格差の犠牲また育児放棄などが人を子供の時から幸福を蝕んできた。これらは人間の倫理的欠陥に由来するもので、根底に利己心があり、それは本来なら善的とされる主張や行動にまで浸透している実態がある。それら善の仮面を付けた利己心は単なる悪に勝って厄介であり、人間の負った『罪』の深刻さを示している。

これら社会的な害は我々人間自身に原因があるのであって、宗教家や信仰者らがしばしば云うような悪魔が害悪を惹き起こしているわけではなく、世界はその構成員である我々一人一人が自らの悪に苦しんでいるというのが実情である。それは人々が道徳律を守ること、また遵法精神によって軽減される場合があるにしても、人々に潜む倫理上の欠陥そのものを拭い去ることはできず、人の側からの如何なる努力によっても相殺することができないことを歴史は証してきた。

この点で道徳主義や敬虔主義、求道者の苦行などは却って人に宿るこの倫理上の欠陥の有様を捉え難いものにし、取り繕いの中に本来収まり切れないものを隠すようなものになっている。

この倫理上の欠陥である『罪』が人生を辛く空虚なものとしているのであって、神が望んで苦しみを与えているのでもなければ、人に試練を与えて試しているわけでもない。その害悪は我々自身に発し、その身の上に帰ってきているものである。これが人類に憑り着いた『アダムの罪』の実相であろう。

畢竟、人は『罪』のために神を含む他者とどのように生きて行くべきかを弁えていない。
聖書の語るところでは、『罪』有る者には寿命が付され、いつかは死によって命を終えねばならないものとされた。
確かに、他者とどのように生きてゆくべきかを弁えていない者にはいつまでも生き続けるべき道理がないはずである。

即ち、人は倫理上の欠陥により、あらゆる他者との絆のような真実の関係性において不完全であり、それが社会悪となって表れており、また、神との関係も損なっている。ここに人生の短さ、苦しさ空しさの全ての原因がある。それこそは聖書が創世記の始まりから黙示録の終わりまで一貫して主題とする「倫理問題」である。ここに於いて、人の存在と空しさの理由、善悪と生死の要諦がひとつの視界に入って来て、それら人の根本問題は一式の解答を見出すのである。

その利己性の『罪』のゆえに、神は人に顕現すること、会話することを控え、人間社会と距離をとってきた。それは神が人を見捨てたのではなく、聖書の語るところによればむしろ関係性を回復し真正な絆を得るためであり、神が圧倒的な存在を示して人を平伏させ抑圧的に支配しないための方策である。自らを現さない神は人間の独裁者や大仰な宗教家とはまったく異なっている。創造神が偶像崇拝を厳正に禁じるところにはこの背景あってのことであり、神が人を自らの『象りに創った』のであれば、圧制で人の意志の自由を損なうはずもない。

この倫理の問題から、神は自らの存在を証明させないことに於いて人の心を探り、個々の人が倫理の問題で究極的な判断を下す自由を担保している。それは人がその身に負った『罪』をどう見做し、どう行動するのかを個々の人に自ら選択させ、その人の内面が神の創造物としての立場に値するか否かを自ら明示させる余地を与えるためである。これが、あらゆる個人に対する「エデンの問い」となることであろう。

そのように人が倫理を完うする願いを懐いて初めて、人は自らの価値を神の前に得る道が開かれるのである。この願いの動機を一言で表すなら『愛』であり、自他を貴重なものと見做す思いである。
このように神が自らを顕現しないのであれば、人がどれほど宗教に確実性を求めようとも無意味となり、「正しい宗教」を捜すことは有り得ないものを求めることになる。元々正しさを会得できない人間は、正しさを追うことに矛盾があり、求めるべきは「より価値あるもの」であり、それはキリストを前にして経典の文言に拘り、傲慢に自分の正義を主張してイエスを処刑したユダヤ教徒の顛末に端的に表れている。

もとより不完全な人は自らの外に神を捜すより、むしろ自らの内面、その心が何に向かっているかを吟味し続けるべきことにある。そうであれば、キリストに神の印を見出した人々のように、神との邂逅も叶うことになるはずである。

神が人に顕現しないのであれば、宗教や宗派への固執は、宗教の本来あるべき効用から離れ、人の価値を見失わせるものでしかない。
正しさを誇る熱心な信仰者に広く単純な善悪の決め付けが見られ、勝ち気で高慢であるのは、一因としてこの点を了解しないからであり、謙虚さを欠いていながら実際には自らの価値を低めているであろう。
それもまた、人に倫理不全たる『罪』が憑りついている証である。

人は何を行うにも、それが宗教や信仰であっても悪を行わずには済まないのであり、人の側からその原因である『罪』を除くことは叶わない。

だが、人にはただ一つ、神の前に真正なものがある。それが『愛』(ヘセド)*であり、また、アダムの罪を負ったままの人々に、神が『義』を仮承認して完徳を認める道が拓かれている。それがキリストの犠牲による『贖い』(あがない)であり、ここにキリスト教の本旨がある。 *「忠節な愛」

聖書の教えるところでは、人の『愛』は『信仰』に結実し、『信仰』は『義』への仮承認をもたらす。
『命』の根源は『愛』にあり、『救い』の根拠は『信仰』にある。
(ガラテア5:6/ヨハネ第一4:16/マタイ9:2/ルカ7:50)

神は人に自らを顕現する以前に、人に『愛』を問う。
そのために、自らの現れの一端を肯定も否定も可能な仕方で示すことを聖書を通して現代にまで伝えており、その役割を担うものがある。
それは『聖霊』と呼ばれる超自然の業を行うものであり、今日は存在していない。しかし『この世の裁き』の時には現れるとされる。それは人類に関わるものであって、信者個人の益のためのものではなく、まさしく「倫理」という問題を突き詰める問題であり、あらゆる人の価値も命もこの一点に関わるのである。
また裁きの要点となる『聖霊』は、信仰を惹き起こすと共に、退けることもできるものとなり、その前に人々は二つに分けられるとされている。
そのため『聖霊を冒涜する者は赦されることがない』とされ、この裁きの重さが強調されている。これこそ「倫理」を問うものだからである。

こうして人は、自らの心にあるものを露わにし、人類に憑りついて来た「倫理問題」は各個人の中で判断され、神の前に分けられるのである。
そうであれば、我々一人一人は何を選び取るだろうか?
『罪』と『愛』、空虚と栄光への分かれ道がそこにある。


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