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3.善悪の知識の木


1:悪魔であるサタン(反抗者の意)は、創造者を認めず、まるで自分が創造されていないかのように利己的な生き方をするよう他の創造物を誘惑します。
それは、悪魔が神から離れる者たちの上に立ち、まさに『神のように』君臨したい願望から、より多くを自分のような反抗の道に引き入れようと惑わし、結果としてアダムとエヴァを通してこの世を神から引き離すことに成功しました。その欲は「支配」にあり、他者の上に君臨することを望みます。(イザヤ14:13-14)

そのため創造界は利己心によるサタンの道に入り込んだので、悪の横行する不調和な世界となっています。悪魔は『この世の神』と聖書中で呼ばれているように、人類に悪と苦難をもたらした源です。(コリント第二4:4)
また悪魔は、神と被造物の間を裂くために中傷を用いるので、彼は「中傷者」(ディアボロス)つまり「悪魔」とも呼ばれるようになりました。


2:悪魔はエデンの園にいる「神の象り」、つまり神に似て自由な選択者として創られた理知的創造物である人間も独立の道に誘いこみました。
悪魔の狙いは最初の人間を利己心によって振舞う仲間に引き入れ、そうして以後の人間社会の全体を自分の支配下に置くことです。
神が悪魔の存在を許したのは、理知的創造物とは忠節な愛の絆で結ばれる事を望まれるからです。そこで人間が悪魔に誘惑されても、各個人が愛の絆を神と人とについて選び取るように求められますが、これが『裁き』となります。悪魔は最終的に滅びを迎えるまで、徹頭徹尾「誘惑者」であり続け、『忠節な愛』の試金石としての役割を果たし終えることになるでしょう。

神が人に求める『忠節な愛』は、ヘブライ語で「ヘセド」と呼ばれます。
人の命、また創造物として存続できるか否かは、この愛によります。
最初の人間であるアダムたちは、エデンの園の中央に設けられた二本の樹で試されました。一本の木は『善悪の知識の木』、もう一本は『永遠の命の木』と呼ばれます。
その目的は、真に忠節な愛を示す者を存在させ、そうでない者を創造界から除くためです。


3:その二本の木が園の中央に置かれたことは、その選択が些細なことではなく、『命と死、祝福と呪い』という重大な選択であったことを示しています。その選択がエデンの園での生活と命の存続に掛かっていたことが示されていました。(申命記30:19)
この選択である「エデンの問」は、アダムの子孫のすべての人にいつかは問われ、最後の審判を決する一貫した論点となります。(ヨハネ1:12)


『神の象り』として理知を持ったものが、神の創造物として生きるのか、あるいは神を愛さず自分を愛して利己的に生きるのかは、神の創造物としての存続の結果を左右するものとなります。それでも神は、自らの『象り』の意志を尊重して、選択の自由に介入されません。ですから、アダムたちも監視されなかったと言えます。


それでも全能の神は創造の意志をいつかは成し遂げられます。そこで愛を選ばない者が永久に存続することは許されません。それはすべてを造った創造者に属する権利でもありますが、『愛は他の人に悪を行わない』とも『愛は法を全うするもの』とも述べる聖書は、愛で結ばれた関係が行き渡ることが神の意志であることを教えます。(ローマ13:10/ヨハネ第一3:10)


4:『善悪の知識の木から採って食べてはならず、触れてもならない。あなたが死ぬことのないためだ』という神からの愛ある禁令は、同時にアダムらの神への愛を試すものとなりました。
アダムは『善悪を知る木』から食べるなら死ぬのでその禁令を守っていたのかもしれず、それではアダムが利己心から従順でいるのか、神への忠節な愛のためにそうしているのかはわかりません。

そこでアダムたちの前には誘惑者が現れることが許されます。
ですから、エデンで「被造物の愛ある忠節」が試されたということができます。被造物が神に自発的に忠節であれば、それによって創造者は神という最高の敬意を受ける地位に就くことになり、創造界は神の意図したままの愛に満ち安定したところとなります。
これこそ被造物に自由を与え、隷属を望まない創造者の美です。


5:ですが、もし『善悪の知識の木』の実から食べるようなことになれば、永遠に生きることはなくなります。なぜなら、それは利己的に生きることを選んだことになり、神を含む他者と利他的な心で結ばれることを望まないことを表すからです。生き方を弁えない者が永遠に生きてよいわけもありません。
しかし、創造者と他の被造物に愛ある忠節を表すなら、彼らは『永遠の命の木』から採って食べ、創造の当初の意図のままに彼らも神と共に永続することが許されます。
もちろん、神はアダムたちを創って愛情を注いできた以上、悪魔の誘惑を退けることを願ったに違いありません。
この禁令を通して、倫理的に無垢であったアダムたちにも、創造者を愛してその意志に沿うか、あるいは創造者を意に介さない利己的な生き方を選択するかの機会が一度限り開かれました。


6:神はこの選択について先見せず監視せず、彼らを妨げることなく自らの象りとしての彼らを尊重して、そのプライバシーを保ちました。
それは神が自らの尊厳を守るのと同じく「神の象り」を尊重し、その自由意志にしたがって行動させることでもありました。神は理知ある被造物に支配的な従順の強要をされません。彼らが創造者を自発的に愛し支持することを望みます。それこそが真実の愛の関係だからであり、人はそのように造られています。愛は利他的で、罪は利己的です。共に自由意志から生じます。
またそれは神がわたしたち人間を単なる「物」や奴隷やロボットのように見ていない証拠です。人間は神を認識することができ、意志を通わせることのできる『神の象り』つまり『神の子』として創られたからです。




創世記2:15-17


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