閉塞してゆく現代に聖書を説く
以下は、キリスト教に縁もゆかりもない方々にむけて、聖書やキリスト教とは何か? 本来の教えはどのようなものか?などを解説する書籍の紹介です。
宗教信仰が希薄化し、また科学崇拝に傾く世相の中でも、聖書とキリスト教は絶えることなく、今でも一定の人々を引き寄せる魅力を放っています。
しかし、その世界を覗いて「あの信仰」に引きずり込まれてしまっては、と躊躇する方も少なくないことでしょう。それでも、何かに惹かれ聖書やキリスト教に何があるのかと関心を持つ方々に向けて、この『閉塞してゆく現代に聖書を説く』の書から眺めてみることをお勧めします。
実際、初めてキリストの教えや聖書の内容に接した本書の読者から、「分かり易く読みやすい」とのお便りを頂いております。キリスト教の意味するところをまとめる書物で、それもキリスト教文化の外の人々に納得のゆくものを見つけるのは簡単ではないでしょう。
というのも、実は教会の中では明解な教理教育のカリキュラムが整っているというよりは、基礎からの漸進的教理教育を期待できない現実があります。
初めから神秘的で理解不能な「三位一体」や、不信者が死後に落ちる「地獄」など、教会の外の人への不条理な物事への説明に窮するところが多く、そのため基礎からの体系的な基礎教育を期待することが諸教会には難しい事情があるのです。それはローマ国教化以来、欧州で制度化された教会全般、つまり「欧米のキリスト教」に言えることです。もっとも、日頃目にする教会といえばこの欧米由来のものばかりがあり、ほかには新宗教のカルト以外にめぼしいものがありません。
そこで本書は、キリスト教や聖書には初めてという方々に、「なぜ生きるのか」、「この世に悪や苦しみがあるのはなぜか」などの人々の根本的な疑問に触れながら、キリスト教の外側からのアプローチから始め、新約聖書と旧約聖書の深く関連した世界、「元来のキリスト教」を探索してゆく構成をとっています。
そこでは原初のキリスト教の持つ奥深い道理を解説するために、表面的に「キリスト教」と呼ばれている一般的な教会での教えではなく、その源流を成す「初期キリスト教」、ローマ帝国の国教に制定されて俗化する以前の純粋な教えに立ち戻り、その優れた教えに触れる必要があります。そうしてキリスト教の成り立ちから知ると、今日では欧米式キリスト教が栄えている事情にも見えて来るものがあるでしょうし、キリスト教が凡庸な宗教ではないことに得心されることでしょう。
しかし、なぜキリスト教を、しかも教会のものとは異なるものを、レアで古いキリスト教を今この時代にお進めするのかといえば・・
古いオリジナルのキリスト教にこそが人間の本質を突き、問題の原因を焙り出すポテンシャルを秘めており、中世の蒙昧を振り払った本来のキリスト教には、どの時代にも通用する驚くべき教えで満ちているのです。
では、キリスト教の真髄はどのようなものでしょうか。
今日、現代人がどれほど高度な技術に支えられた生活をしていようとも、一人一人の能力は限られており、それらの技術の賜物のすべてを作ったわけでも仕組みを知っているわけでもありませんから、ただ優れた機器を操作しているだけの我々の能力も、古代人とそう変わるものでもありません。
却って、この21世紀に現代人は自分の理解を超える膨大量の情報の大海原に投げ込まれ、何が真実なのかさえ見失いつつあるのが現実でしょう。AIの発達は人間の危険な利己心に利用され兼ねず、技術の高まりと共にいよいよフェイクを見破るリテラシーは不足してゆき、自分の思考さえ知らずに操作され兼ねない現実が視界に入ってきています。
そのうえ今日、人類共通に未曾有の地球規模での危機を経験しています。
世界は予告なく洪水と旱魃が頻繁に襲う場となってきましたが、この難局を前に人間同士は団結するどころか利害や考えの違いから争いを、それも前世紀的な戦争まで繰り返している現実があります。そのような戦禍がなくても大半の人々が日々を生きるのに余裕もない生活を強いられる一方で、世界中の富の大半はほんの数%の人々に所有されています。
世界はこの歪んだ状況を是正しようと努力を重ねて来ましたが、その成果はとても十分とはいえず、むしろそれぞれの心に隠れた貪欲のために人類社会は右往左往して、いまや地球環境そのものが変調を来していることは否定できるものでなくなってきました。これは個人が「信じれば天国に行ける」というような教会の教えとは別次元の問題であり、人類存続に関わる「危急な脅威」と言うべきでしょう。現代世界は「同時危機」に面していると言って過言でないのです。
果たして、人間に危機を脱する叡智はあるのでしょうか。むしろ、人間自身に何かの問題があるのではないでしょうか。人間には「能力としての叡智」と言えるものはあっても、歴史の歩みの結果からみると「叡智」と言えるかどうかは怪しいもので、人間社会に賛辞を贈るには醜いところが随分と目につくものです。
本来、人が生きて行くということは、いつの時代でも難事業であり、ましてさまざまな生活上の革新が起こっている現代であるのに、生活は必ずしも向上していないのが現実です。周囲を見回して、幸福なだけの人がどれほど居るでしょうか。今日では何事かが便利になる一方で、人々の生活はより煩雑になってストレスを増し、人々の信頼性は低下してセキュリティの厳格化は人を見えない牢獄に閉じ込めるようにプライバシーとの競争を続けます。
世界は戦争や犯罪をやめるどころでもなく、個人でも隣人とのトラブルを抱える存在です。それは社会でも同様で、個人が道義的に不完全であるように、政治というものも人に必要でありながら腐敗が避けられず、人々を裏切ることが常となって、政治が社会悪の原因そのものになることにも耐えねばなりません。
それでなくても、人生は短く、しかも苦難が付きまとい、最後は誰もが去って行かねばならないのです。
その中で、人々は「神が居るなら、どうして世にはこれほどの悪が有るのか?」と問うでしょう。ですが、神を云々する以前に人間自身に問題はないものでしょうか? つまり、「人間とは、どうしてこうも悪いのか?」という問いです。
この人間の問題について、ユダヤ教は人が従うべき生き方を規定しますし、イスラムでは人生は天国行きのための試練であると教え、仏教は輪廻転生を教え、教会のキリスト教は信じれば天国に行けるとして、なんとか人の生涯に意味づけをしてきましたが、聖書そのものは古代から「人間自身に問題がある」ことを指摘していたのです。
それでも本書の趣旨は危機感を煽って信仰に入らせようというものではなく、聖書の内容を予め知っておくなら、今後の世界がどのように変化し激動しようとも、その人に一定の指針を与える可能性が秘められていることをお知らせするもので、キリストの教えの基礎にあるのは『愛』と『赦し』であり、それが人に残された暗闇に差し込む一条の光ともいうべきものです。
さて、人間社会の将来はどういうことになるのでしょうか?
今日人類社会を襲う地球規模の危機の原因は、実に人間自身に潜むものであり、問題の解決を阻む人間に由来するその問題は、有史以来一向に変わっていないものです。
それは聖書中で「罪」と呼ばれますが、これは個人の犯す悪行を意味しません。むしろ「人間共通の不道徳性」を指しています。人間が道徳の問題を抱えていることは日々報じられるニュースを見聞きするなら反論の余地もないことで、これは「個人の犯罪を抑制する」というような対処で済むものではなく、このままなら人類は存続する限り悪行を止めずにいつか社会の破綻さえ起こしかねない危うさが見えます。この人間に染み付いた不道徳性が人間自身から発して世界に苦しみをもたらしていることを聖書は指摘し、その先に話を進めます。
原始キリスト教は、人間に解決不能のこの「罪」という問題をえぐり出し、今日の行き詰まった世界の意味と、残された一つの希望を指し示します。
それは「人の目で見ず、耳も聞かなかったこと」であり、聖書という一書にだけに知らされているものであり、個人が天国に行けるかどうかなどを云々するものではなく、『この世』という『罪』に塗れた人類社会の行く末を警告し、その原因を指摘し、そこからの救済を知らせるという、まさに人間以上の観点からの情報を知らせるものです。
キリスト教といえば、結婚式、ハロウィンやクリスマスばかりで知られるところですが、それらの祭礼の一つもキリスト教のものではないことを知るのは意外なことでしょう。
信者になれば「天国行き」の特典があるというのでもありませんし、信じなければ「地獄に落ちる」わけでもありません。
本来のキリスト教を知るためには、理性的な日本人の伝道に失敗した「欧米のキリスト教」でも、人を隷属させるカルトでもない「原初のキリスト教」を知る必要があります。そこで旧新二巻の聖書が書き終えられた使徒時代の終わり頃に信じられていた教理に触れるべき理由があるのです。キリスト教界は、その後ローマ帝国の国教となるところで、権力者が教理を選ぶという珍事が起こっていたことは歴史に明らかなことで、イエス・キリストが宣教してやまなかった『天の王国』はローマ帝国の介在によって、ほかの宗教の「天国」と混同される結果に至っています。つまり、人類救出の希望も信者だけが死後ゆく安楽な場所とされてしまったのです。
はたして、人はどのように生きるべきものなのでしょうか。
そこで本書は、人間自身の内心への問い掛けと、貪欲が導きとなっている『この世』の空しい生き方に対する指摘と、それとは対照的なキリスト教本来の意義へと読者の注意を向けます。
そこで原始キリスト教は、人が現にキリスト教徒であるか否か、現にどんな思想信条を持つかに関わりなく、外見や立場によらず各個人の内奥を問うものです。それは「洗礼を受けたかどうか」などという問題ではありません。人間の抱えて来た根本的問題は、個人の内面の性質に関わっているからです。
このように初期キリスト教には、旧来の諸教会に対して革新的であり、そこで教えるような「三位一体」や「天国と地獄」も無く、むしろ古くて新しく、実社会での閉塞感に行き詰った現代の人々にきわめて新鮮な希望を与えるポテンシャルを秘めています。
読者は、自らが存在し、またどう生きてゆくことを選ぶかを吟味し、現代社会との関わりにどんな意味があるのかを再考するきっかけを得ることになるでしょう。
そして、キリストも予告してやまない迫り来る時代の激変の理由と結末に見通しを付けることは、その人に「天国行き」などの気休めではない、時代の変化に関わらず、現代人にとっても古代人にとっても、普遍的な真に意義ある心の助けとなることでしょう。
まさしく、イエス・キリストの現れによって、かつてユダヤという一つの体制が激変を経験することになりましたが、そのキリストはやがてこの世界全体の体制に臨むことを予告しているのです。
もくじ
序章 「危機の深まる世界」
「この世」というもの
人はなぜ生きるのか
「上なるもの」との関わり
キリスト教とは
エデンの園での試み
『罪』 死をもたらすもの
政治と宗教という必要悪
人の死後を問う
「魂」というキリスト教の死生観
キリストによる罪からの救い.
来るべき「神の王国」
家庭という保護の場
神が用いる「聖霊」
イエスとは何者か
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