海の底で本に出会う。
「遠泳と潜水/図書館/ドアをノックする音」
今までの人生で、
自分の限界に挑戦すべく、独り山に登ったことはあるだろうか。
新しい知見を得たく、旅に出たことはあるだろうか。
私は、山登りも、旅行の経験もあるが、
しかし、そこで気づかされたのは、自分という枠の強固さでもあった。
今回「同じ事象に対して、互いにブログを交換してみませんか。」と提案されたとき、不意に頭に浮かんだのは「遠泳と潜水」という言葉だった。
私の中に、あてのない遠泳に独り出る勇気は無いし、独り深い海を潜ろうという感覚には想像するだけで恐ろしい。
そうなのだ。
今まで私が独りでやって来た事の多くは、自分の中で安全を確保して行動していた予定調和に過ぎないのだと気付かされた。
もし一緒に、遠泳をする仲間がいたら、自分だけでは気づかない景色を見られるだろうか。
もし一緒に、潜水をする仲間がいたら、自分だけでは到達できない、深淵にたどりつけるだろうか?
誰かと同じテーマでブログを交換するというのは、私にとって、全く未知の冒険なのだ。
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例えば、
自分の人生を作ってきた本や、映画、音楽や、思い出を、理解している人が好きだ。私はそれを密かに、その人の持つ「図書館」と呼んでいる。
自分の図書館を愛している人が好きだ。
自分の人生を作ってきたものを、それをひけらかす訳ではなく、ただ、時に応じて、深く語れる人は美しい。
街を行く全ての人の人生に、その人の自身の図書館があるのに、
人はその外見から、その深さに思い至ることができない。
もちろん自分の図書館に全く興味がなく、大事にしていない人が多いことも経験上知っている。だから自分の記憶や感性を、そして生き様を、自身で組み上げる人は、軸を持って立っているその姿自体が美しいのだとも思う。
そして、誰かの図書館に向き合うためには、自分の図書館の鍵を開ける必要があるのだ。ネットによく流れてくるニーチェの格言のように。
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例えば
ドアを静かに開け閉めする人が好きだ。
美しくドアをノックができる人が好きだ。
それは、誰かへの気遣いではなく、モノに対しても丁寧であるかという、スタンスそのものである。
その行為の静けさに、その所作に、音色に美意識を持っている人は、きっと日々の行動に主体的に意識を向けているのだろう。
忙しさを理由に、または何の考えもなく、ドアを乱暴に開け閉めする人を主体的とは言わない。それは、ただ自分本位なだけだ。
私にとっての主体的とは、自分と周囲という場の中で、自分の在り方を見つめられることである。その在り方で影響力を持つ人である。
主体的にモノを見つめる人のセンスにいつだって興味がある。
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いつも自分の枠を広げたいと思っていた。
いつも、自分の感覚や世界を広げたいともがいていたのに、
今回「同じ事象に対して、互いにブログを交換してみませんか?」と提案されたとき、世界はそんなにシンプルだったのか。と、一つの価値観を砕かれた気がした。
遠泳をする感覚で、潜水をする感覚で、丁寧にノックをして、お互いの図書館を行き来することで。
遠い海の先で、自分では得られない新しい価値を、気づかせてくれるかもしれない。
深い海の底に、独りでは決して届かない、自分自身の内側を見せつけられるかもしれない。
私は多くを得るだろう。そして、私は得たものを宣言しなくてはいけない。
同時に私は多くを渡せるだろうか、私は自身の図書館をひっかきまわして、想いや気づきや、知識を机に広げなくてはいけない。
そして、またそこから新しい議論が始まればよい。
そういう往復のブログであれば良いと思う。
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