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光と闇

この2か月ほど、状況が日々変わり、日常も激変して。政策の道筋も見えない。誰もが日常が追い付けていない。そんな気がする。

情報が無い中で人々の思考と憶測だけが肥大化してゆく。
自らの命にかかわる時、人は、ここまで思考を広げ、また狭めてゆくのかと思う。

何かを書こうとして、どうしても今の評論になりがちで
どれだけ、その世界に浸っているかを気づかされる。。

作家が「現状を無きものとして、現在という物語を進めてゆくのが
難しい」と書いていたことを、を唐突に理解した。。

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テーマは「光と闇」である。何故このタイトルなのかは
この答えの文章にあることを期待しよう。

余りにも大ききなテーマに、何を書けばいいかを随分長い間、方向を見失っている。
最初に思いついたのは、風の谷のナウシカ、ゲド戦記、といった、物語で語られる「光と闇」について。そして、宇宙論、進化論(瞳の器官についての考察)、物理論(光と熱エネルギー)、といった科学。
さらには、性善説と性悪説。心といった、心理学や哲学、社会性といったアプローチ。

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いくつか書き進めたのだが、どうにもしっくりこないので、少しだけ景色を書こう。

とても昔の話。
毎年夏に三浦半島に海水浴に行っていた頃がある。炎天下の中、海にも入らず一人、散歩をしていた。目もくらむ白昼夢のような昼下がり。住宅街の中に神社の鳥居があった。階段と長い参道を抜けると、その先に社と横穴式の古墳があった。古の人の墓であり、防空壕でもあったのだろう。

白く溶けた世界の中で覗き込んだその横穴の闇は深く濃かった。その冷たさを覚えている。

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別の話をしよう。
今は壊されてしまったが、
田舎に古い祖母の家があった。最寄駅から30分ほどの、田んぼと山に囲まれた古い寂れた街道沿いの、三差路の脇にあった。母屋と離れと中庭を持った古い農家の家。

これも夏の帰省の頃、暗い田舎道を抜けて、夜になったころ、到着し、その家の台所の灯りが遠くに見えた時の安心感を覚えている。中にいる、祖母やおじや、親戚たちが食事と共に出迎えてくれる温かさを覚えている。

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私が見ている視点は片側からの視点である。
例えば夏の横穴古墳の暗がりの中から、外を見た時の光のまぶしさはどうであろう。
例えば、温かい田舎の家から、闇夜に向かってゆくその暗さはどうであろう。

私たちは、光と闇の中にいる時、今立っている側に順応した景色しか見ることができない。その印象によって、世界は全く色を変える。
(そういえば瞳は、闇の中と、光の中で、その使う機能を変えるね。)

そのうえで、「光と闇」の、他の相反する物質(たとえば、水と油、真空と空気等)との特異なところは、その境界に物理的抵抗はないという事である。私たちは、光と闇の間をいつでも行き来できる。それは、精神的な光と闇の間も同じで。一歩そちら側に入れば、そちら側からの景色を見ることができるのだ。

闇にいる時、光は恐ろしいかもしれぬ。
光にいる時、闇は昏いかもしれぬ。

どちらにいることが安心で、どこにいることが、たやすいかはわからないが、私たちは、どちらも持っていて、どちらも見ることができ、その環境に合わせた解釈をしている。そして、それを一義的だと思い込んでいる。

それを都度選べるものであれば、世界はより広くなるかもしれない。
環境を変えることで見える世界は全く変わってくるかもしれない。

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そんなわけで「光と闇」この話題は互いに2周くらいしたいですね。
どんな光と闇の話を聞かせてくれるか、楽しみです。

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