あやこの時間帯 #02

あやこが、おとうさんと暮らさなくなるずっと以前、あやこは、よく、架空のボールをつかって遊んでいた。六畳の座敷にねそべって、思いえがいていた。それが、ピンクのボールだったなら、どんなに心はずんだかしれない。じつは、目には見えない、色のないボールだった。直径十五センチほど、ゴムよりかるく、うすく、よくはずんで、閉めきった部屋のなかを、はねていた。音はない。あやこは、思いのままにあやつった。隅の一角にあてると、勢いをまして反対のかどにとんでいく。その、軌道がえがく対角線を、あやこは、見ることができた。いつだったか、ふわりと浮かんだ透明のボールを、うっとりながめていると、かべに思わぬ角度でぶつかって、窓の外へとびだしてしまった。そんなことははじめてで、その後もそういうことはない。窓は閉じていたのに、ボールもうっかりしていたらしい。ガラスも透明で、見えなかったらしい。あやこは、追いかけた。まるで、絵本のようだった。少女が、お花畑で、ちょうちょを追いかけるように、追いかけた。ボールは、引力に対して、適度な軽さだった。ほぼ一定の高さをただよっていた。せまい路地のあいだを、ずっと上を見ながらかけていたあやこにとって、自動車にはねられなかったことは、幸運だった。あやこだけに見えるボールを見ることができない通行人たちは、あやこの目線につられて、なにもない空中に、目をはせた。あやこの家から、三百メートル先にひろがる公園は、森にかこまれて、空気が澄んでいるせいか、ようやくボールも落下した。芝生ははげて、こげ茶色の土が、ところどころむきだしになっていた。空には、大入道のような雲がたれこめていた。気がつくと、あやこのほかに、だれもいなかった。あやこの注意が、よそへ向いた。ボールは、消えた。さっきまで射していた日がかげると、あやこは、木かげのすみにある、公衆便所へ向かった。れんが造りのそこは、ひんやりと、よどんでいた。火照る頬をおさえることもせず、あやこは、衣服を脱ぎはじめた。個室にたちこめる臭気は、さほど気にはならなかった。ただ、最後にくつしたを脱ぐときの、室内とは異なった外気のなかでこすれあう内ももの感触が、こころよかった。適度な几帳面さで折りたたまれた衣服は、靴のうえに置かれた。素足で踏みしめた泥土は、思いのほか、しっとりとなじんだ。まだ恥毛の生えない更地を両手でかくしながら、おずおずと歩みでたあやこは、目の前にひらけた平原に人かげのないことを、あらためて確認した。風はぴたりと止んで、ぐるり取りかこんだ木立の濃いみどりも、揺るがなかった。警戒心の旺盛なあやこは、なおも、ベンチのかげにしゃがみこみ、あたりのようすをうかがった。うしろを向いてもだれもいないので、少し、勇気が加わった。立ちあがるとき、ひざの関節が鳴った。芝生に足を踏みいれた。ふぞろいの芝が、足ゆびのあいだをくすぐった。たしかに、あやこはひとりだった。まだ、性器のほかは男子と大差ないあやこの、けれどいかにも脆弱な肉体に、雨ではない、霧がふりそそいだ。上空から見おろすと、あやこの肌のような色は、ほかに見あたらなかった。この霧は、あやこのためにふりそそいでいると、あやこは信じたにちがいない。股間に両手を差しいれたまま、置き去りにされたように立ちすくんでいたあやこは、直接性器にあてがった左手のくすり指で、まだ、芽をふく前の、ちいさな陰核を押しあげた。閉じられたままの内ももは、精神の高ぶりとあいまって、かなりの熱をおびていたはずなのに、あやこに、それを感じるゆとりはなかった。あやこの瞳は、霧と、霧にかすむ遠い森とのはざまにただよう、あやこにしか見えない、なぞめいた幾何学模様だけをとらえていた。しかし、時の経過にわすれられたように、いつまでもつづく静寂は、かえって、あやこの心理を不安にさせた。ふだん、めったに触れることのない環境に、からだの部分がさらされているという事実は、動揺をかきたてた。以前、学校の課外授業でこの公園をおとずれた時に見かけた、芝生の周囲をめぐる散歩道を歩く清掃夫のすがたを思いだして、あやこは慄然とした。あのとき、ちりとりと、自分の背丈ほどの竹ぼうきを手にした老清掃夫は、青ねずみ色の作業服を着て、目立たないが、自分こそがこの公園にとってもっとも重要な存在である、と主張しているかのようだった。目立たない存在が、植え込みのかげからあやこのはだかを見ているかもしれないという想像に、あやこのからだは、小きざみにふるえた。その瞳は、どんなだろう。ふくらむ想いに、足がすくんだ。霧につつまれたあやこの肌が、しっぽりと濡れたころ、空に晴れ間がのぞいた。木陰に、ぶらんこがあった。ようやく不動の姿勢をくずしたあやこは、物かげの清掃夫に、はじめてうしろ姿を見せた。歩きかたが不自然なのは、股間から両手を、かたくなにはずさないためだった。木製のシートには、うっすら砂が積もっていて、足をのせると、乾いた音がかすかに聞こえた。さびた鎖は、芯まで冷えていた。腰をおろした。全裸でぶらんこにのるというスリルに、あやこの心は、無邪気にはずんだ。だが頭のすみには、まだ、あの老清夫の視線があった。その意識が、よりいっそうの快感を生みだしているという事実に気づくほどの、知識も、経験も、当時のあやこにはなかった。公園にひびきわたるぶらんこのきしみは、あやこの警戒心をあおった。外部にたいして神経をとがらせることによって、あやこの内部は、野放図と化した。いつしかあやこは、夢中でぶらんこをこいでいた。それから数年後、あやこの更地に、まばらながらも恥毛が生えはじめたころ、あやこに、なんの成長のあともみられなかったならば、それは、だれの責任だったろう。さいわい、責任を問われるものはなかった。あやこが、おとうさんと暮らさなくなる少し前のことだった。あやこは、おぼえたての夜ふかしに、身をゆだねていた。なにをするでもなく、闇の音をきいていた。カーテンをそよがせているのは、町の寝息かもしれなかった。隣室からもれていたほそい光は、とうに消えていた。あの公園の日以来、架空のボールが外へとびだす偶然にめぐまれなかったあやこは、あの日のことをわすれていた。事実この夜、架空のボールは見えなかったし、しいていうなら、座敷を出たときにふり向いた玄関までのせまい廊下が、奇妙な遠近法によって歪んでみえたというていどだった。障子の桟や柱、天井板などが、ゴムのように伸びたりうねったりしていた。玄関のすりガラス越しに、門灯が瞬いていた。開いた扉のちいさなすきまから、風が吹きこんだ。向かいとをへだてる幅のせまい公道に、人気はなかった。左手は、ねまきのボタンをはずしていた。玄関口での脱衣、ただそれだけのことで、あやこの全身は、深い期待感にふるえた。からだは憶えていたと、いうのだろうか。ふだんは意識しない、家のにおいを吸いこみながら、どこまでも慎重なあやこは、濃紺地のカーディガンだけははおることにした。素足に靴をつっかけた。扉のかげから左右を確かめた。カーディガンで胸を隠した。むきだしの下半身を夜気が襲った。心の昂ぶりは抑えようもなかった。からだ中に流れる赤い血の轟きを、このときほど感じたことはなかったろう。あやこは走った。上を向いたまま走った。二階の窓からだれかが見ていやしないかという不安を、ぬぐいきれないからだった。夏の名残は、消えていた。どの窓も、閉ざされていた。電線が、星空に交錯した。そして、街路灯の冷たい光が、かけぬけるあやこの額を、ねぶるように照らしつづけた。もう半人前にふくらんだ乳房は、カーディガンにこすれながら、ちぎれそうなほど揺れた。どれほど走ったろうか。じつは、たいして走ってはいなかった。ややひらけた三叉路にでた。その一角に銭湯と、小さなコインランドリーがあった。営業を終えたガラス越しに、洗濯機や乾燥機が、浮かんでみえた。そこへ重なりあうようにして映しだされたのは、あやこの姿だった。ほの暗い鏡面上に、うすぼんやりと、しかしふくよかな奥行きを伴って、あやこがいた。そんなあやこを、あやこは、真正面から見すえた。上半身はカーディガンにつつまれて、すそは、脚のつけ根にとどいていた。そこから両脚がのびていた。ほそく、弱々しかったけれど、あやこのなかで、もっとも意思的な部分だったかもしれない。あやこは、ふだん、鏡をあまり見なかった。ましてや、全身像を見るいわれなど、あるはずもなかった。ガラスのなかの、半透明のあやこは、肉づきのよい唇をうっすらと開けたまま、あやこの実像をながめていた。カーディガンを胸の前で重ねたまま、ふたりは対峙した。その状態は、星々が見ためにも位置をかえたとわかるほど、長くはつづかなかった。はす向かいに建つ小さな病院が、あやこの背後に映じていることに、気づいたからだった。息をのむそばから振りむいたあやこは、外観ばかりを白くぬりこめた、三階建ての物体を見た。二階と三階が病室らしかったが、カーテンがひかれていた。患者がいる気配はなかった。その病院の院長はやぶである、といううわさを、あやこは知っていた。向きなおったあやこは、胸をはだけた。露わにされた乳房は、とおく、息づいていた。そして、すべてを脱ぎ去った。街路灯の明かりは、あやこの骨格に、見たことのないような陰影をかもしだした。氷のようなガラスのうちに見えたのは、まごうかたなき、あやこの裸身だった。あやこの胸は、高鳴った。それが、初恋の感情に似たものといえば、美しすぎるだろうか。たしかに、美しすぎた。あやこは、あやこの姿態にみとれていたわけではなかった。あやこは、うっすら恥毛の生えた部分に、両手をすべらせた。つめたいのは、ほんの表面だけだった。あやこは、ややあごをひいて、あやこの瞳をうかがった。こんな瞳を、あやこは、見たことがなかった。架空のなかにやすらぎを見いだすあやこが、意識して陰核にゆびを這わすのは、いつ以来だったろう。むきだしのそれへじかに触れてみると、あやこの頬は、段階をこえて、色づいた。さっきまで明確だったガラスのなかの輪郭は、みるみる揺らいで、ふたりの境界は、あいまいになった。中ゆびの、それぞれの関節は、それぞれに異なった感触をうけると同時に、ある共通の幻想のなかへと沈みこみつつあった。真夜中のつめたい霧は、一定の距離をたもちつつ、あやこの周囲をとりまいた。下腹部におもい衝撃を感じたあやこが、あの、公園でのできごとを思いだすまでに、そう時間はかからなかった。病院のカーテンが、サッとひらいたら、どうしよう。あやこの記憶に、公園の老清掃夫がよみがえった。彼は、囚人のように、窓ぎわにたたずんていた。どうしたの。どうしてそこにいるの。病気をしたの。怪我したの。だめよ。だめだわ。そこにいちゃ。そこはやぶなの。やぶ医者なの。いますぐそこを出ちゃいなさい。あるけなかったら。あるけなかったらあやこがおぶってあげる。はだかのあやこは、ふだんより、力持ちだったかもしれない。ただ、それはおそらく、断続的におとずれる、わずか数秒のあいだだけのことだった。あやこは、けして、夢中になっていたわけではなかった。あやこの両耳は、静寂のなかの、微細なノイズをも聞きもらしはしなかった。五十センチとはなれていないもうひとりのあやこの、顔ばかりをながめていたあやこは、目を伏せたはずみに、両の乳房を見た。せまい胸板のうえの、ほのかなふくらみは、あの日のあやこにとって、もっとも無垢な場所だったかもしれない。そこに目をはせたときの、あやこの面立ちに、不良少女の影を見たとは、うがちすぎだろうか。あやこの網膜にフォーカスされたものを、あやこは、あやこのものだと認めてはいなかった。ガラスのなかに戯れる、ふたつのボールは、架空のボールほど、身近ではなかった。あやこが、足もとに落ちていたカーディガンを拾おうと、腰をおろしたときだった。適度な運動を終えたあと、汗ばんだ皮膚の表面をつめたい風が吹きぬけていくときのように、あやこの、両もものすきまへ向けて、つめたい風が吹きぬけた。さっきまで、あやこのゆびがまつわりついていた陰唇に、細かな氷の結晶が、無数についた。カーディガンを着こんで、ふたたび走りはじめたあやこは、あやこの家へむかった。一分とはかからない距離だった。家の手前までもどると、あやこは、名残を惜しむでもなく立ち止まり、周囲を見わたした。路上にも家の窓かげにも、人の気配はなかった。やや、警戒心のゆるんだあやこは、思いきって、靴を脱いでみた。じつは、銭湯の前でも、靴は、はいていた。靴のなかが、いちばん、汗をかいていた。あやこは、かどばったアスファルトを、はだしで踏みしめた。それと前後してカーディガンを脱ぐとき、あやこの心は、躍った。街路灯につくられた、いくつもの影を見つめていたあやこは、うわの空だったのか、そこに、月の影がふくまれていないことを、見落としていた。カーディガンをおなかの前でまるめて、左手に靴をもったあやこは、そのまま、もう一度かけた。家の周囲を、ひとまわりだけして帰るつもりだった。そんなあやこの不意をついて、ほんものの人かげが現れた。相手は角を折れて、こちらへ来るようだった。その、直前の足音を、あやこは聞いた。動転したあやこは、相手のすがたをほんのわずか顧みただけで、わき私道へ逃げこんだ。そこを抜けると、ふたたび、さきほどの通りに出る。その左はもう、あやこの家の玄関だった。相手と鉢合わせになったらどうしようという不安をかなぐり捨てるように、あやこは、一散に走った。風をきる音が、耳をついた。ようやく家のなかにたどりついても、あやこの心音は、鎮まらなかった。わき道に入る瞬間を、玄関に入る瞬間を、見られたのではないか。もしもあの通行人が、あやこの逃げまどうすがたを目撃したのであれば、さながら、森の小動物に見えただろう。やわらかな尻の肉は、まりのように弾んでいたにちがいない。あやこは、くつ箱のなかから、隠しておいたねまきを取り出した。夜明け前の、寒気と緊張にさらされたあやこの肉体は、家のなかに入っても、なかなか弛緩しなかった。あやこは、カーディガンとねまきを抱えたまま、あやこの部屋へもどるとき、おとうさんの寝顔を見なかった。あやこは、はだかのまま、ふとんにもぐりこんだ。ぬくもりは、とうに消えていた。あやこが、ガラスのなかにもうひとりのあやこを見ていたとき、局部にそえていたゆびのあいだから、生ぬるい鮮血がしたたり落ちてきたならば、どんなに劇的だったろう。現実には、あやこがおそい初潮をむかえたのは数日後のことであり、そのときあやこが目にしたものは、鮮血とはいいがたい、赤黒い塊だった。

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