見出し画像

三浦芳聖伝 36、大東亜戦争と三浦芳聖(串呂哲学研究ノート№157)

大東亜戦争と三浦芳聖

1、大東亜戦争(『ウィキペディア』より)

大東亜戦争(だいとうあせんそう、、英: Greater East Asia War)は、大日本帝国と、中華民国、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、オーストラリアなどの連合国との間に発生した戦争に対する呼称。東條内閣が、昭和12年7月7日勃発の支那事変(日中戦争)も含めて「大東亜戦争」とすると閣議決定した。

画像5

1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端とし、北支事変が勃発。ここに大東亜戦争が開始された。 近衛内閣が「北支派兵に関する政府声明」を発表し、事件を「北支事変」と名付け、今回の事件は中国側の計画的武力行使であり、大日本帝国はこれに対して自衛権を行使するために派兵(増員)するとした。 8月第二次上海事変が勃発するに及び、戦線は中支(中支那、現中国の華中地方)、そして中国大陸全土へと拡大し、日本と中華民国の全面戦争の様相を呈した。

1941年(昭和16年)12月8日、日本は開戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)によってイギリス帝国とアメリカ合衆国の2国に対して宣戦布告し、最初の作戦であるマレー作戦と、それとほぼ同時並行に行われた真珠湾攻撃を開始し、日本とイギリス、アメリカとの間に戦争が発生した(第二次世界大戦も参照)。

2、一石三鳥の碁にしてやられた

昭和16年12月8日、三浦芳聖は、愛知県渥美郡伊良湖岬村堀切の常光寺で大政翼賛会の錬成中でした。

堀切常光寺

この日、ラジオで真珠湾奇襲攻撃の大戦果が報道されたのを聴いた時、芳聖は思わず「しまった!とうとうルーズベルトの一石三鳥の碁にしてやられた」と嘆声を発しました。

するとその時、一緒にいた年配の同志が、芳聖を詰問してきたので、その時、その同志に語った内容の記録です。芳聖が、12月8日の開戦時に、世界情勢をよく把握していた事がよく分かりますので芳聖の著書より転載させて頂きます。

1、米国の国論統一がなされる
先ず第一に全米国民をして期せずして一致せしめ「米国民の血税をしぼって永年かかって完成した軍艦を宣戦布告も無しに不意打を喰らわして一朝にして全滅せしめられた。我々は此の最大の恨みを何としても報復して、世界全人類の為に此の野蛮国を粉砕して了わねばならぬ」と振るい起たしめるでありましょう。

2、打倒日本の国際世論が喚起される
満州事変に当たり国際連盟はリットン報告に基き、五十三対一で以て日本を侵略国と断定され、日本は連盟と所見を異にすると云う事で脱退を致しましたが、世界各国は挙って日本を打倒しようと云う腹は無かったと存じます。

然るに此の度は平和態勢にある艦隊を不意打ちしたと云う事は、強く世界各国を刺激して、打倒日本に足並みを揃えさせるでしょう。

3、国民を有頂天にさせ油断させる
此の狭い半島の突端の一漁村に於ても当局の発表に依ってもう此の戦いは勝ったものの如く有頂天になっている。恐らく当局は「戦勝の要訣は機先を制するにあり、先ず緒戦においてワシントン及びロンドン両条約に基づく米海軍の優勢は一朝にして粉砕」と国民を有頂天にさせる。

之が一番恐ろしい敵だ。元寇も日清も日露も、先方から仕掛けられて止むに止まれず日本は立上がったのだから天佑神助があった。この戦は緒に於て既に七分の大敗を喫したことを覚悟して、確り褌を緊めてかからねばならぬ。

(三浦芳聖著『串呂哲学第一輯ー絶対真理の解明』9~10頁/1956年、読み易くする為、旧仮名遣いを改め、改行、句点を補う等、編集致しました事をお断りします。)

3、道場兼自宅が空襲で全焼

昭和20年1月3日、芳聖は、愛知県碧海郡明治村(現在の安城市南部、碧南市東部、西尾市北部)で、その地方の有力者の錬成中でした。

芳聖が午前中の講義を終わって、お昼の休憩に入ろうとする直前、壇上で「本日、米軍機による空襲で道場が焼失する」という霊感に接し、芳聖は

「今こういう御神示があった。これまで錬成中は、外出しない原則でやってきたが、自宅が焼失するという事になれば、どうでも帰宅しなければならない」と言って、あとは錬成主任の部下に任せて、名古屋に引き返しました。

地元の青年二人が自転車で名鉄南安城の駅まで送ってくれましたが、鞄を持っていた青年の自転車のチェーンが外れたため、1分間の事で電車に乗り遅れ、国鉄安城駅まで行った所、13時40何分まで汽車は無いという。

南安城

更に名鉄本線今村(新安城)駅まで行った所、車両故障の為、急行電車が40分ほど延着するという。仕方なく、電車を待っていた処、一時間程遅れて到着したので乗った所、すぐに警戒警報が入り、桜駅で列車が止まってしまいました。

名鉄佐倉駅

芳聖は、桜駅から昭和区御所町の道場まで、約6キロの道のりを、途中、爆弾焼夷弾の降る中、爆風に何回も吹き飛ばされながら、外套を着、防空頭巾をかぶって、駆け足で自宅に駆け付けた所、回りは火炎に包まれていて、家族は皆防空壕に入っていて猫の子一匹居りませんでした。

公園の高射砲陣地が空爆されて砲弾が破裂していたため、皆、空襲が続いていると思い込み、防空壕から出てこなかったのです。

昭和区御所町

芳聖は、家の表に置いてあったバケツ三杯の水を頭から被って、火の燃え盛る道場の二階へ駆けあがり、辛うじて「天津神、国津神、皇祖皇宗のお社」と頭山満翁の「忠節」の掛け軸一本を引きちぎって持ち出すことが出来ました。

あとは一物も残さず焼失致しました。(この時、芳聖は、数えで42歳の厄年になったばかりでした。)

この日の空襲で、B29 が70機飛来し、西区、中村区、栄、昭和区、熱田区、中川区が爆撃に遭い、焼失家屋3,588、罹災者16,336人、死者70人、負傷者346人、高田派病院全焼、栄郵便局全焼、中央電信局全焼、名古屋ホテル全焼、という記録が出ています。(名古屋空襲より


前号(№156)       次号(№158)

串呂哲学研究ノートバックナンバー(総合)

情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖の伝記及び三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

**********************************

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
**********************************
最後までお読みいただき有り難うございます。Facebookグループ 串呂哲学研究にご参加下さい。アップデートがすぐに分かります。
https://www.facebook.com/groups/462542897709938/
グループだけの最新情報もあります。
**********************************

読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。