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三浦芳聖伝 23、満州国建国に尽瘁


満州国建国に尽瘁じんすい

1、満州国建国とは

まず、最初に満州国建国とは何だったのかについて、2018年7月に発行された鈴木荘一著「満州建国の真実」に的確な定義が出ていますので、引用させて頂きます。

満州建国とは、帝政ロシアに侵略された満州遊牧民族の独立の夢に日本陸軍が協力し、革命後の共産ソ連の軍事膨張に対する防共国防国家の建設を目指したものだった。

鈴木荘一著「満州建国の真実」4頁

『満洲国- Wikipedia』には、下記の様に説明されています。

満洲事変により日本軍が占領した満洲(現在の中国東北3省遼寧省、吉林省、黒竜江省)、内蒙古、熱河省を領土として1932年(昭和7年/大同元年)に成立した国家。一般に日本の傀儡国家と見做されている。

【参照】満州国(満洲国)の建国の経緯〜滅亡までをわかりやすく解説

2、荒木中将から密命を受く

三浦芳聖は、昭和6年(1931年)9月18日、満州事変が勃発するや「荒木貞夫中将」より密命を受け、日・満・蒙・漢・韓の五族協和の理想国家(王道楽土)「満州国」建国のため中国大陸へ渡った。

満州事変(まんしゅうじへん)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件 (柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)である。『ウィキペディア』満州事変

この三浦芳聖の満州建国の話は、荒木貞夫中将から「極秘で」と依頼された秘密事項という事で、芳聖は、満州建国について、下記のように述べているだけです。

昭和六年九月十八日、満州事変が突発致しまするや、俄然私は或る重大使命を帯びて、些か満蒙三千萬の民衆に、真にその所を得さしむる為に王道楽土の建設をと「満州国」建国の為に尽瘁致しました。(満州国は建国されたが、結果は我々の希望とは全く相反した軍閥、官僚、政党、財閥共の利権漁りの場と成り果てました。)
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』序文48頁)

この件については、芳聖は、この他に何も書き残していませんので、芳聖の講義を思い出しながら、当時の記録を調べて書き進めて行きます。

芳聖は、昭和6年(1931年)9月18日の満州事変勃発後のある日、教育総監部本部長・荒木貞夫中将から、「満州に、日・満・蒙・漢・韓の五族協和の理想国家(王道楽土)を作るのに協力してほしい。この仕事は、貴方でなければできないから」と密命を帯び、紹介状の代わりに荒木貞夫の「恩賜の軍刀」を預かって、単身大陸へ渡りました。

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芳聖は、着流し姿で銭湯へ行くような振りをして、特高の尾行を撒き、舞鶴港から船に乗り、関東軍司令部のある旅順へ向かいました。船中の芳聖の服装は、腰には荒縄を巻くという勇ましい姿でした。

舞鶴港
京都府舞鶴市(YAHOO!JAPAN地図)

3、関東軍司令部に本庄中将を訪ねる

旅順の関東軍司令部に到着した芳聖は、荒木中将から預かった「恩賜の軍刀」を見せて本庄中将に面会を求めると、直ちに司令官室に通されました。

芳聖が司令官室に入ると、関東軍司令官・本庄中将は、天照大御神の掛け軸の前で両手を合わせ「天照大御神、天照大御神・・・」と唱えながら一心に祈っていました。

芳聖は、本庄中将に、荒木中将から満州建国の為に極秘で派遣されたことを話すと、趣旨を理解した本庄中将は、関東軍の幹部を集めて芳聖を紹介してくれました。

中国
満州(YAHOO!JAPAN地図)

4、愛新覚羅溥儀を脱出せしむ

芳聖は、本庄関東軍司令官、土肥原賢二関東軍特務機関長らの関東軍幹部と相談の上、南満州鉄道東亜経済調査局奉天主任・甘粕正彦らの関東軍関係者ら数人と共に天津に行き、天津の日本租界で日本公館の庇護を受けて、天津日本租界内張園に幽閉されていた「愛新覚羅溥儀・あいしんかくら ふぎ」を脱出せしめる事に成功しました。

この愛新覚羅溥儀脱出劇には、芳聖が仙人行で身につけた「忍術」が役に立ちました。この当時の芳聖は、気合と共に3メートル以上もある塀の上に飛び上がることが出来ました。

溥儀小
愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)

その時の様子は「溥儀を天津から湯崗子とうこうしまで洗濯物に化けさせて柳行李に詰め込んだり、苦力に変装させ硬席車(三等車)に押し込んで極秘裏に連行した。(『ウィキペディア』甘粕正彦)」と記述されているように、手に汗握るドラマチックなものでありました。

湯崗子とうこうしとは、遼寧省鞍山市にある町です。昭和6年(1931年)当時、関東軍司令部のあった旅順も、この遼寧省にありました。

【参照】愛新覚羅溥儀より
1931年:文繍と離婚。満洲事変勃発後、大日本帝国陸軍からの満洲国元首への就任要請を受諾し、日本軍の手引きで天津を脱出、満洲へ移る
『ウィキペディア』愛新覚羅溥儀

【参照】甘粕正彦より
その後、清朝の第12代皇帝宣統帝の愛新覚羅溥儀(1924年に馮玉祥が起こしたクーデターにより紫禁城を追われ、1925年以降に天津に幽閉されていた)擁立のため、溥儀を天津から湯崗子まで洗濯物に化けさせて柳行李に詰め込んだり、苦力に変装させ硬席車(三等車)に押し込んで極秘裏に連行した。
『ウィキペディア』甘粕正彦

5、満洲国の勲章を辞退

翌、昭和7年(1932年)3月1日、長春(新京)で満洲国の建国が宣言され皇帝の地位に就いた愛新覚羅溥儀は、関東軍の計らいに対し、泣いて感謝の意を表わしました。(東京裁判での証言は虚偽です。)

満洲国の建国宣言
1932年3月1日、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞が委員とする東北行政委員会が、元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と命名された。国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。『ウィキペディア』満洲国

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戦前の東アジア地図

芳聖は、満洲国政府から勲章を授与すると云われたが、名誉も地位も金も求めず、天下国家の為に捨て石となる覚悟でしたので、その申し出を丁重に断わり、国内に戻って皇国維新運動に邁進しました。

*コラム・超世志のここだけの話
 名誉も地位も金も求めず、満洲建国劇の黒幕に徹した芳聖は、満洲国政府が授与するという勲章を断ったお蔭で、A級戦犯にならずに済んだ。
 満州国から大勲位蘭花大綬章を授与された本庄繁大将は、GHQから戦犯に指名され、1945年11月20日、自決(69歳没)。土肥原賢二大将は、A級戦犯として 1948年12月23日、絞首刑(64歳没)。満州国の民政部警務司長(警察庁長官に相当)に大抜擢された甘粕正彦は、1945年8月20日、新京で服毒自殺(54歳没)した。

【参照】東京裁判 《 溥儀の証言 》より
 大清国皇帝になった溥儀が、紫禁城から追放されて満州国皇帝となるまで、どのような思いで日々を送り、どのような経緯で物事が進展したかは、溥儀の帝師(チューター)であり、よき理解者でもあったジョンストンがつぶさに観察し、『紫禁城の黄昏』の中で詳しく書き残しているとおりである。
 ところが、東京裁判に証人として召喚(しょうかん)された溥儀は、もっぱらソ連から言われたとおりに証言し、すべては日本の軍閥の仕業(しわざ)であり、自分はまったくの傀儡(かいらい)にすぎなかったという答弁に終始したのである。満州事変当時、溥儀が陸相南次郎(みなみじろう)大将に宛てた親書の中で、満州国皇帝として復位し、龍座に座することを希望すると書いていたという事実を突きつけられても、溥儀はそれを偽造だと言って撥(は)ねつけたのだった。
 この強弁には血を分けた弟の溥傑(ふけつ)でさえも憤慨し、日本軍閥はわれわれを利用したかもしれないが、われわれも彼らを利用しようとしたことを、どうして証言しないのかと言って、兄である溥儀のふがいなさを嘆いたという。


🔴バックナンバー(総合)

🟡情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№137)  
🟢次号(№139)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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