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三浦芳聖伝 7、京都の学生時代(1)(№121)


京都の学生時代(1)

1、両洋学院の中学部4年に入学

芳聖は、大正7年(1918年)4月8日、京都市左京区聖護院西町にあった両洋学院の中学部4年に入学しました。

両洋学院
(『中根正親先生回想録』巻頭写真、1986年出版)

両洋学院は、それまで京都正則予備校という名称でしたが、大正7年4月、「東西両洋文明の融和体得者の育成」を校是にするという中根正親学長の発案で「両洋学院」と改称されました。

三浦芳聖は、大正7年4月から大正9年の3月までの2年間、この私立両洋学院で学び、天才的教育者「中根正親学長」の肉親にも勝る、慈愛に満ちた訓育を受け、天賦の才能を開花させました。

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京都市左京区聖護院(地図マピオン)

両洋学院という国際的な校名は、芳聖のために命名されたといってもよいと思います。両洋学院は、京都市左京区聖護院にあり、聖護院は芳り育てた場所と解釈します。

串呂主宰神が計画し長年月掛けて準備した「芳聖の学び舎・両洋学院」のあった地名が「聖護院」です。両洋学院の神風串呂が解明されていますので参考の為1本だけ掲載します。

両洋降誕地
三浦芳聖著「神風串呂」(1969年3月号)

両洋学院」(京都市左京区聖護院西町)-「三浦芳聖降誕地」(愛知県岡崎市牧平町大門)-「竹ノ輪」(愛知県新城市)-「大谷」(静岡県浜松市天竜区)-「中根」(静岡県焼津市)-「元町」(東京都大島町)

焼津市中根
静岡県焼津市中根(地図マピオン)

「竹ノ輪」は重要な串呂を示す地名。「大谷」は、中根先生の右腕として両洋学院で教鞭をとっていた両洋学院の同窓生の名前。「元町」は、芳聖の母の名前。

両洋学院は、昭和26年、学校法人両洋学園となり京都市中京区壬生上大竹町にあります。

両洋中学
(『中根正親先生回想録』巻頭写真、1986年出版)

両洋学院は、芳聖の入学当時、正式な中学の資格を持っていない予備校でしたが、安楽寺の慶法老師が芳聖に課した上級学校に進学する条件「中学4年に編入すること」を達成するために串呂主宰神が用意した唯一の学び舎でした。

慶法老師が課した条件のお蔭で、芳聖は他の中学校に行かずに両洋学院に入学したのです。当時、3月15日に上洛して、中学4年に編入できる学校は両洋学院のほかに無かったと思います。

大正時代の事で詳しいことは分かりませんが、両洋学院は準中学というか、卒業すれば専門学校への入学資格が取れたのだと思います。

2、中根正親先生との出会い

両洋学院に入学した芳聖は、そこで中根正親という偉大な教育者に出会いました。中根正親は両洋学院の創立者で、学院長(校長)でありながら自ら率先して教鞭をとる熱血教師でした。

中根正親は、大正3年(1914年)、満23才という若さで、日本で初めて話すスピードで書ける「中根式速記法」を創案した天才で、日本の速記史にその名を残す人間国宝級の偉人でした。

ところが、中根正親は、「速記の普及」は弟にまかせて、教育界に転進し、「教育法の速記」というか、記憶法や学習法などのユニークな教授法の研究に没頭し、後に「要体教育」と呼ばれる独特の新教授法を創案しました。

中根正親は大正4年(1915年)に京都聖護院に「京都正則予備校」を開講し、昭和58年(1983年)5月、病気で入院し退職するまでのおよそ70年間、終始学校長として活躍し、また生涯ユニークな新教授法の研究に精進しました。そのため、昭和41年(1966年)11月には京都新聞五大賞第一回教育賞の栄誉に輝きました。

芳聖は、両洋学院の第一期生として、この偉大なる教育者中根正親のもとで、今の学校とは一味も二味も違う、少人数教育による、きめの細かい御指導を受けることが出来ました。

大正7年(1918年)当時、中根正親は、29才の若さで、教育こそ吾が命と、はりきって教育活動に邁進していました。

聖護院にあった両洋学院の中根正親校長は、串呂主宰神が芳聖の為に派遣した教育者であったと確信しています。

中根正親校長の遠祖・中根正恒は、三方原合戦の勇士で、愛知県額田郡箱柳村(現岡崎市)に住んでいたことが、歴史家の研究によって明らかになっています。(『中根正親先生回想録』26頁、1986年)

三浦芳聖(1971年帰幽)は、こうした歴史を知りませんでしたが、中根正親校長の先祖は、大宝天皇から出ていると串呂で解明しています。

3、志学の神風串呂

三浦芳聖が、向学の念止みがたく、数えの15歳の春3月、青雲の志を抱いて上洛し、学問を修めたことを昭示する「志学の串呂」が解明されています。


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🔴情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

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串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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