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自由に生きて、自由に死んでくれ

 斉藤です。

 前回の川野さんからの質問は以下のようなものだった。

 『人は自分に向けられる愛や関心からどうやって逃げて、あるいはどうやってそれらと折り合いをつけて生きているのか』

 難しい。人のことは知らないから、自分の話をしようと思う。

 私は性欲を感じることがあるが、ロマンティックな感情はよくわからない。いわゆる”交際”については、検討することがないわけではない。性的関係を持つにあたって、性感染症その他のリスクを減らすため、合意に基づいて閉じたグループを作ることは悪くない考えのように思える。そこに世に言う恋愛感情は不要というだけだ。

 そんな私が、少なくとも相手にとってはロマンティックな意味で、愛を告げられたときにはどうしてきたか。ありがとう、と言ったこともあるが、今思えばそれは嘘だ。そうかー、と言うことが多いかもしれない。

 そして、どうしてほしいのかを聞く。付き合ってほしい。付き合うとは具体的にどういう意味だろう? 苦手な返答がいくつもある。他の人と仲良くするなとか、相手を特別扱いしろとか、挙句の果てには、相手のことを同じように愛せとか。感情を表す動詞を命令形で使わないでくれ。

 私は愛や関心を向けられること自体が嫌というより、行動をコントロールされることが嫌なのかもしれない。もし告白の言葉が「愛している。自由に生きて、自由に死んでくれ」だったら、「あんたもな」と笑って返せる気がする。

 だが、実際にはそううまくいかない。上記の事情をできる限りわかりやすく説明しようと努めることになる。他に私にできることはない。

 あるときは、相手のほうから距離を置きたいと言われた。またあるときは、私が引っ越してしまってそれきりになった。ごくまれに、それまでと変わらずよい関係が続けられることもあったが。

 やはり、うまく逃げられてもいないし、ましてや折り合いをつけられているとはとても言えないようだ。

 ところで先日、当企画について『この数回、各人が自己の考察をどんどん深めている……。』とある怪獣が言っていた。

 翻って私はと言うと、自分はこういう人間だ、と考察することをあまりしないように思う。例えば、朝には電車で席を譲り、夕には道案内をしたとしても、自分が親切な性格だとは考えない。親切なときも(正確には二回)あるというだけのことだ。

 私という人間は、私の考えること、感じること、行うことの中に自ずと立ち現れるものだという気がする。それらを分析して、自分で自分に名前をつけたり、言葉で説明したりといったことは得意ではない。この短い記事を書くのにもなかなか骨が折れた。

 Quaijiu Free 1 で鳥居さんが人生の物語化を取り上げていた。その言葉を借りるならば、私は人生に物語を欲していないのかもしれない。人生にはひとつひとつの瞬間が点々とあるだけで十分で、それらを線で結ぼうとは思わない。私にはあなたと過ごす時間がときどきあるだけで十分で、その関係に恋人という名前をつけようとは思わないのと似ている。

 思えば、俳句をやっていても、私は物語性のなさに惹かれる。あまりに短いから物語は入りきらない。なんだかどうでもいいようなことが書かれている。そこが好きだ。

 さて、次回の担当は鳥居さんだ。かつてブログ「知性がない」でも、どうでもいい話について書いていた。私はこの記事が非常に気に入っている。

 どうでもいいこと、あるいはどうでもよくないことについて、もっと聞かせてください。

この記事は怪獣歌会アドベントカレンダー11日目の記事です。

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