男性原理としての神または神としての男性原理

ネットプリント版Quaijiu vol.1の歌会録I-四において、「キリスト教は男性原理の宗教である」「キリスト教の神を殺さなければならない」と読める発言をしたことをまずお詫びしたいと思います。性差別がキリスト教によって生み出されたとも、キリスト教に固有のものだとも私は思っていません。特に日本社会において、男尊女卑がキリスト教とともに西洋から持ち込まれたかのような言説がしばしば流布し、日本社会に古くからあった、そして今も厳然としてある差別の責任が転嫁されるような事態を、私は問題だと思っています。


その上で発言の意図について説明すると、この評において私が言いたかったのは、「男性として表象される神が支配することになっているこの世界の男性原理を殺さなければいけないっていうこと」という部分に尽きます。


私はこの歌を、神が〈He〉と呼ばれていること、を問題にした歌として読みました。〈He rules the world〉という既成のフレーズから〈彼を殺さなければならない〉という衝撃的な結末へと至るとき、はじめは見逃されていた〈He〉という言葉が急に強い力を持って立ち上がってきます。男性を表す呼び名で神を呼ぶという慣習は、はじめはごく当たり前のことのように提示されていますが、〈わたしが生き延びるために~〉以下を通過した目でもう一度読むと、この慣習自体が非常に抑圧的なものに見えてきます。この揺らぎには、歌の中の〈わたし〉の葛藤が表れているように思います。〈わたし〉は一方では神を男性として表すという慣習に馴染みながら、他方ではそれを(その慣習を、慣習の背後にある構造を、慣習に自分が馴染んでしまっていることを)、自分の存在を危うくするほどの脅威と捉えているのです。つまり、この歌の〈He〉または〈彼〉が指しているのは、神そのものと言うより神に付随する〈He〉性、神が〈He〉と呼ばれる事実の裏に働いている力、すなわち男性優位の思想なのだと私は思います。〈わたし〉が対決しようとしているのは、この社会における男性優位の思想であり、とりわけ、〈わたし〉自身が内面化してしまったそれである、と思うのです。


神に性別があるかどうかは私には分かりません。神を“He”と呼ばなければならないのは、人間の側の言語や制度の欠陥であって、神とは直接関係がないようにも思えます。ただ、問題は、現行の社会においては神と〈わたし〉との間にそれらの制度が割り込んできてしまう、ということです。


男性優位の制度が世界を覆っているがゆえに、それを通してしか神に対峙することができないということ。それは、男性原理が神に代わって世界を支配している、と言い換えてもいい状況だと思います。この歌における〈He rules the world〉というフレーズでは、神を〈He〉と呼んだ瞬間に、〈He〉=男性原理が神に取って代わってしまうのです。


この社会の中でどんな営みをするときも、社会構造に深く組み込まれてしまった差別から自由でいることはできません。宗教もそのような営みのひとつでしょう。同時に、人間を支え勇気づけるはずの宗教において、差別が肯定されたり、不問に付されたりする場合、差別を受ける人々の孤独や苦しみはいっそう深いものにならざるを得ないだろうと思います。これは狭い意味での「信徒」(宗教コミュニティの成員)のみに関わる問題ではなく、それぞれの方法で信仰や宗教に関心を持ち、関係を持つ者、そして宗教のある、同時に差別のある、この社会に住むすべての者にとっての問題であると考えています。宗教の領域であれ、他の領域であれ、差別と戦い是正しようとしている人々に、私は深い敬意を覚えます。


善くあろうとする人間の試みを支える宗教の力には、尊敬の念を抱いてきました。だからこそ、それと相反するような、差別や排斥を是とする要素には、苦しい思いをしもしますし、そういった要素について宗教の内外から発せられる批判には正当性があると考えています。ですが、差別が宗教の本質であるとは思っていませんし、宗教の内部にあって差別と戦う人々がいることを無視するつもりもありません。今回、宗教そのものを否定していると取れるような形でテクストをお目にかけてしまったことについては、心から申し訳なく思い、再発防止に努めます。

川野芽生

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